中国最北端を行く(11)撫遠 バカうまの大鍋料理

烏蘇鎮

更にロシア国境にあるという街へ行ってみることに。ところが道は途中で雪に閉ざされていた。実は人は住んでいないのではないかと思われる。それでも鎮という行政単位がある、それが国境なのである。国境には人が住んでいる、村がある、ということが実効支配の有力な力となる。モンゴルでも見てきたが、人が住んでいる、住んでいるように見せることが重要なのである。

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そして歩哨のいる建物が見えたので、行ってみた。軍事施設に近づく、ということには相当の抵抗があったが、ここにも人影はない。ただ洗濯物が干されており、犬もいたので誰かが居住していることは確認できた。向かい側は烏蘇江を挟んでロシア領。最前線であり、氷で歩いて渡れる距離であるにしては、緊張感はない。

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そして更に南へ行くと寂しい漁村があった。船は凍った河に凍結されていた。あまり豊かとは思えない家が並んでおり、ここは村と言えるが、人影はない。そこへ老婆が幼い子供を連れて歩いてきた。宋さんが話しかけると、笑顔で答えてくれ、家に招き入れてくれた。その家は入るとすぐに居間、そして大きな鍋が設置された台所にもなっている。この鍋で何でも作るらしい。その横にはベッドがあり、そこで話を聞く。

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時事通信社 金融財政ビジネス(2014年3月27日号) コラム放眼日中「中ロ国境の街で」

http://www.chatabi.net/colum/482.html

 

そして河へ行く。厚い氷で閉ざされているが、一部穴が開いており、下が水を通っている。ここから魚を釣るのだろう。老婆の孫も魚を釣っているらしい。

 

農村で

戻る途中、別の鎮を通り過ぎた。農機具などがあり、少し興味を持って降りてみる。ちょうど歩いてきた農民を捕まえ、話を聞いた。農村の実態が少しつかめてきた。

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日本経済研究所月報コラム「アジアほっつき歩る記」第27回「中国 中ロ国境の街で」

http://www.chatabi.net/colum/1077.html

 

2月23日(日)

大鍋料理

今日はもうハルピンへ戻る日となっていた。列車は午後なので、昼は先日行けなかった大鍋料理を予約して行ってみた。外は日中でも零下20度程度と寒かったが、店に入ると暑かった。

 

それにしても豪快なこの料理。大鍋に汁を入れ、そこへ鶏を一羽ぶつ切りで入れている。そこへキノコ、豆腐、トウモロコシなどをぶち込み、ぐつぐつ煮込む。しかしこれがバカうま。大汗を掻きながら、ハフハフ言いながら食べる。メガネが曇る、デジカメも曇る。凄いエネルギーが部屋を流れている。

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あまりの暑さに、窓を開ける。すると零下10度台の冷気が流れ込み、何とも爽やかになる。そしてまた食欲が出る。どう考えても4人で食べるには多過ぎる量だと思っていたが、鍋のあらかたを食べてしまう。我々にもエネルギーが出た。汗でシャツを取り換えたい。急いでホテルに戻る。

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戻りの列車

ホテルをチェックアウトして出発。しかしこのホテル、本当に安くて快適だった。もし夏に来ればどうなのだろう。きっとお客で溢れているのだろう。そして料金も倍以上するかもしれない。

 

タクシーは1台では荷物が乗りきらず、2台に分乗した。駅まではすぐに着く。この駅、本当に真新しい。一昨年できたばかり。ようはこの線は2年前にここまで伸びてきたということだ。それまでの長い年月はこの最東端へ来るためには最寄駅からバス、ということだったろう。駅は天井が異常に高く、広々としている。

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Mさんは途中の佳木斯で降りて、そのまま出張となるということで、チケットの変更に向かった。昔はチケットを変更するのは大変な作業だったが、今ではすぐに出来るらしい。オンライン化のお蔭だ。

 

駅には地元の人々がハルピンや他の都市に行くため、集まってきている。家族で行く者、友達と行く者、楽しそうだ。中に尼さんがいた。周囲には大勢の女性たちがいる。信者だろう。口々に別れを惜しんでいる。最近農村にも宗教がどんどん入っている。今の中国では何かを信じない限り、とても生きていけない、ということだろうか。それにしてもこの果ての果てまでやってくる精神は凄い。

 

列車は先日と全く同じ型。今回は4人で乗り込み、個室を占拠。やはりこの方が気は楽だ。私は上の段に登り、荷物を詰める。上の奥には広いスペースがあり、かなりの荷物を入れることが出来る。列車内は暑いので、2つのコートをしまい込む。下ではすでに酒盛りが始まる。

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先日と全く同じルートの折り返しながら、Mさんが加わったことで、色々な話が聞けた。特にこの鉄道路線は戦前、日本人開拓民の開拓地と重なっており、また戦後の農場政策なども興味深い。

 

佳木斯到着は夜中の12時だったため、それまでずっと起きていて、話し込む。Mさんが寝過すことはないが、我々も見送りを決めていた。Mさんが下りてからもなかなか出発しない。時間は夜中の12時、佳木斯の知り合いが迎えに来るとのことだったが、さすが商社マン。私などは怖気づいてしまう。

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それから朝までの眠りは浅かった。恐らくはこれまで寝すぎていたせいだろう。すぐにオジサンが一人乗り込んできて、上の段に上る。我々に気を使い、電気も点けなかった。明け方、私の毛布を直してくれた。何だかほんわかした気分。そしてまた彼は静かに下りて行った。

 

朝は天気だったが、ハルピンに近づくに従い、空気は悪くなった。都会が近い。あの青い空、涼やかな風、一面の白い世界はやはり幻だったのだろうか。

 

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