里港の藍氏の家は想像よりはるかに立派だった。実は台北の藍先生から電話番号と住所を貰っていたが、電話を掛けても出なかった(これは台中と同様)。しかも今ここへ来て分かったことは住所も少し違っていた。そして現在の当主はここには住んでいないようで、もしここまでは辿り着いても、会えない可能性の方が高かった。朝温先生と会ったことは全てを解決していて驚くしかなかった。もし明日以降一人でバスに乗ってきてもむなしく帰るだけだったはずだ。
先生の教え子の女性とは会えたが、彼女はちょっと困っていた。実は現当主は今日の午後は高雄に用事があり、出掛けていたのだ。ところが彼女が私に『紹介されたのは誰?』と聞いてきたので、それを伝えていると、彼女の顔が変わった。『あなたが会いたかった人が向こうから歩いて来るよ』というではないか。何と高雄の用事を終わり、当主の藍さんがちょうど到着したのだった。温先生が道に迷ったことで会うことが出来た。これは不思議な力が働いたと皆が驚く。
藍氏夫妻の案内で、藍氏邸を見学する。中央に建つ立派な建物は1923年時の皇太子(のちの昭和天皇)が台湾巡行で立ち寄るとのことで作られたが、実際に来られることはなかったらしい。ただ100年前にこの立派な建物を建て、皇太子を迎えるかもしれない栄誉を得ていた藍氏。この地域での名士としての地位が窺われる。当時の当主藍高川は日本時代貴族院議員にもなっている。
藍氏夫人が『建物の上に建つ避雷針は総督府と同様の作りで、台湾には2つしかない(総統府には現存していない)』と説明してくれた。因みに彼女は何と満州族だという。畲族と満州族が結婚、何とも不思議な世界であり、もっともっと話を聞きたかったが、私にはもう一つ行きたいところがあったので、泣く泣くお別れした。
お話しによれば、移住後の人々の生活はかなり過酷だったらしい。小学校は藍氏の住む地域にしかなく、川が氾濫すると家に帰れない子供もいたという。現在は眷村が見直されてきたようだが、若者は村を離れ、寂しい地域になりつつある。比較的近くには客家の街として有名な美濃があり、そこにも寄ってみたかったが、既に夕暮れ。温先生は私を屏東駅まで送ってくれ、台南に帰っていった。今回はお世話になり、かつ奇跡のような出会いを頂き、何とも有り難い。
屏東駅前で宿を探した。疲れていたので一番近くに見えたホテルに飛び込む。何だかとても懐かしい感じのにおいがした。日本人にも何だか慣れている。料金も高くなかったのでそこに決めて部屋に行ってみると、かなり昔風でラブホだったのだろうか。快適ではあるのだが、残念ながら机が無く、床に座ってPCを操作するのは大変だった。
腹が減ったので外へ出た。駅前だが食堂などは見当たらない。大きなゲームセンターはあるのだが。ようやく見つけた食堂は超満員。何とか席を確保して、普通のご飯を食べる。屏東の名物がなにかも理解せず、予定外に早くここに着いてしまった動揺があっただろうか。ただ田舎は台北並みの料金だと量が格段に多いことを忘れており、腹一杯食べた。
5月24日(金)潮州へ
朝屏東駅の反対側へ行ってみる。確か市場があったと記憶していた。バナナなどフルーツが安い。そこを過ぎると、きれいな公園がある。ちょっと戻ってクラブサンドの朝食を食べる。何とも屏東へ来た感覚はない。周辺には台湾系の廟もあるが、一方駅前にはベトナムやタイの言葉が書かれた看板も多く、混沌とした世界が広がっていた。
今日は潮州へ行くことにした。屏東から潮州までは台鐵で僅か20分ほど。取り敢えずチェックアウトはしたが、荷物は宿に預けて電車に乗る。実は明日台北に帰る自強号の切符を買ったら、屏東が始発だったので、潮州は日帰りにして、明日屏東から帰るという選択に至る。ただ潮州に何があるのかはほぼ分かっていない。