ある日のバンコック日記2020(7)サナムチャイからトンブリへ

1月28日(火)サナムチャイからトンブリへ

何となくバンコック滞在が長くなる予感があった。そしてちょうどOさんから、『バンコク謎解き華人廟めぐり』という本を借りた。この本にはまさに私が知りたいと思っていたことが書かれており、驚き、そして楽しく読んだ。直ぐに紀伊国屋で本を買い、華人廟を巡ってみようと思い、MRTに乗ってみる。

バンコックのMRTは大幅に延長されており、一部は環状線のようになっている。少なくともファランポーン駅から先が繋がったことにより、行動範囲が非常に広がった。今日は初めてサナムチャイという駅まで行ってみる。駅は真新しく、非常にきれいで驚く。そして駅を出ると、観光客目当てのトゥクトゥク運ちゃんが声を掛けてくる。白人が沢山歩いていて驚く。

川向うに渡る橋に向かって歩いて行くと、市場があり、カフェやホテルもある。この付近、これまで一度も来たことがなく、全くノーマークだったが、面白そうだ。橋の上を歩くと風は強いが、眺めは良い。橋を渡ると、立派な仏塔が見える。庭園も見事だ。見れば1820年代にコーヒー園だった場所がお寺になったらしい。

その先を歩いて、サンタクルス教会を探す。川沿いに建つこの立派な教会、タークシン王(タークのシン)がポルトガル人に土地を与えて1770年に建てられた(現在の建物は1916年)という。この時代はちょうどタークシン王がトンブリ王朝を開いてすぐ。荒廃したアユタヤからトンブリに都が移転したのだ。

そこから細い路地を歩く。ここがトンブリ朝時代の華人集落、クディ・チンだった。特に福建人が多く住むと言うが、残念ながらその特徴を見出すことはできない。細い路地には猫がゆっくり歩いている。まるでNHKの世界街歩きのようだ。バーン・クディチン博物館があったので入ってみる。ここは80年以上前に建てられた華人の個人宅であった。

クディ・チンは1767年、タークシン王がトンブリ王朝を建てる際、ポルトガルの兵士と福建を中心とした中国人をここに入植させたのが始まりらしい。現在のバンコック華人のマジョリティーは潮州人であるが、これはタークシンが潮州系であったことと関連する。但し世界的なチャイナタウンで潮州人がマジョリティーを占めるところはなく、バンコックが極めて稀であることが分かる。そして本来主流であるはずの福建人はどうしていたのか、その歴史がここにある。

川沿いに戻ると、建安宮があり、ここが福建系の廟であることからもそれが分かる。実に古びた、こじんまりしたいい寺であり、昼間から人が絶えない。更に歩くと、今度はタイ式の大きな寺院を目にする。ワット・カンヤラーナミット、中に入っていくと一転、中国様式の門があり、拝殿がある。これはなんだ、如何にも華人らしい様式ではないか。しかも本尊の大仏は三宝公であり、これはあの明朝時代の大遠征で有名な鄭和が祭られているではないか。

地図を見るとその向こうにモスクがあるが、何と細い運河を渡る橋はなく、かなり遠回りする。古いモスクが見えたが、門は閉ざされていた。聞けばこの付近にはムスリムの墓も沢山あるらしい。自転車の旅を楽しむ白人団体の後を行くと、白が鮮やかな大きな寺の裏から川沿いに抜け、古びた倉庫を目にする。既に使われていないようだが、後で調べると往時は塩を保管する倉庫だったようで、塩で儲けた大商人がいたということだ。

そしてトンブリ朝の宮殿跡地を見たと思い、フラフラ歩くが入る場所が見つからない。この辺、初めて来たが、白人や中国人が多く歩いており、店も沢山出来ている。横道に入ると人だかりがあり、50バーツを払ってそこへ入ると、何とワット・アルンだった。ここだけ中国人が列をなして写真を撮っており、日本人もいた。トンブリ宮殿の入り口を探したが、ここも隣は海軍の施設であり、入ることは叶わない。どうやら宮殿は海軍に飲み込まれているらしい。そこから歩いてMRT駅まで行き、宿へ戻る。暑さもあり大いに疲れる。

夜、部屋で水漏れがあった。フロントに言うと、係がすぐに見に来てくれたので、てっきり対応してくれると思ったが、その後は誰も来ない。またフロントに行くと『修理の人は明日修理すると言って帰った』というから驚いた。直ぐに部屋を変えて欲しいと言うと、夜中は出来ないと言い、一晩だけ別の部屋の鍵をくれた。バケツを借りて、水漏れの部屋の浸水を防ぎ、別の部屋で寝る。

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