ある日の台北日記2019その2(6)鹿谷にて

4月20日(土)
鹿谷で

翌朝は早く目覚めた。この宿は朝食付きだというので8時に降りていくと、カウンターにハンバーガーと豆乳が置いてあった。宿泊客は私しかいなかったようだ。金曜日の晩だったが、雨のせいだろうか。そうこうしている内にUさんが迎えに来てくれ、一緒に農会へ向かう。

 

農会がちょうど開店した瞬間にオフィスに入っていくと、林さんが待っていてくれた。お茶を飲みながら、茶の歴史、今回は特に林さんの師匠である呉振鐸氏について、突っ込んで聞いてみた。茶業界では最も有名な専門家の一人である呉氏だが、彼が外省人である、云々と言った話に出会ったことは殆どなかった。これから蒋介石と共にやってきた福建人の中で、台湾茶業に貢献した人物にスポットを当てたいと考えている。

 

呉元場長について、林さんは『自分より良く知っている人々』を数人挙げ、連絡先なども分かる範囲で教えてくれた。これは何とも有り難い。もう少し話を聞こうとした時、スタッフが林さんを呼びに来た。何と今日は農会の社員旅行で、林さんはその忙しい中、私に対応してくれていたのだ。何とも申し訳ない。外へ出ると大型バスが停まっており、すでに全員乗り込んでいたので、恐縮してしまった。これからどこへ行くのだろうか。

 

我々もこれからどうするのだろうか。Uさんが『ちょっと茶畑を見にいく』というので、バイクの後ろに乗る。そしてバイクは坂道を上がり、山の中へ向かう。到着したのは、茶工場。そこには林老師がいた。何となく雨を気にしている様子で、早々に皆で茶畑を見に行くことになる。

 

これまで何度も鹿谷には来たが、初めて見る茶園がそこにあった。そこでは今まさに茶摘みが行われている。かなりの急斜面であり、道路から登っていくのはかなり怖かった。地元の女性たちが元気に茶摘みしているのだが、最高齢は84歳とか。平均でもゆうに70歳は越えているだろう。これはかなり厳しい労働だと言わざるを得ない。

 

少し雨が降り出した。摘み取られた茶葉が計量されて(計量はどこの茶産地でも真剣勝負な雰囲気)、次々に茶工場に運ばれていく。ここのところ雨続きだったので、今日に期待していたようだが、残念ながらここまで、という感じになっており、皆さん少し緩んできていた。やはり山の茶摘みは時間との闘い、いつ天候が変わるか分からないのだ。

 

茶工場では、すでに多くの葉が萎凋されていた。これからいくつかの工程を経て、明日には凍頂烏龍茶になるのだろう。果たして出来はどうだろうか。皆さん、心配顔のように見えた。幸い雨は強くはなかったので、バイクで戻り、昼ご飯に麺を食べた。そのまま偉信の所へ寄ろうとしたが、隣に住むお父さん、林老師に招き入れられた。どうも彼は体調が悪いらしい。

 

林老師は茶作り中にもかかわらず、戻ってきて相手をしてくれた。何とも有り難い。私が更新しているFBも欠かさず見ていてくれ、コメントももらっている。せっかくの機会なので、凍頂烏龍茶の歴史を聞き、合わせてそこにかかわった人々についても詳細に聞いた。一体どのようにして凍頂烏龍茶はブランドとして生み出されたのか。当時の台湾の置かれた状況と併せて考えることが重要だ。

 

最後に張さんも訪ねてみた。張さんは今朝がた中国から帰ってきたばかりであったが、快く質問に応じてくれた。彼は改良場に勤めているから、呉元場長について、誰がよく知っているか、なども教えてもらう。勿論もう歴史の域に入っているので関係者も高齢でなかなか捕まらない。

 

張さんの話の中でも、1970年代、なぜ台湾が輸出から内需への切り替えを行ったのか、それは誰の指導で行われたのか、などを教えられる。これまた極めて重要な話であり、これは台湾だけに起こった事象ではなく、興味深い。特にそれを論理的に説明してくれるので非常にありがたい。

 

今日は土曜日なので、夕方になると台中行きのバスが混むだろうと言われ、バス停に向かう。渓頭で大勢が乗るので、途中のバス停では、地元民向けに少なくとも3席は空けておく政策がとられており、無事に乗車できた。今回もUさんには大変お世話になり、思いがけず収穫の多い旅となった。

 

いつもは高鐵台中から高鐵に乗って帰るのだが、何となくいつもと同じはつまらないと思い、バスを終点まで乗る。新しい台中のバスターミナルから台北行きのバスは頻繁に出ており、こちらの方がかなり安いのでそれに乗った。だがこのバスは台中市内を走り抜けてから高速に乗ったので、何と3時間もかかって台北に着く。ちょっとぐったりして1泊2日の旅は終わった。

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