ある日の台北日記2019その2(5)那瑪夏へ

4月19日(金)
那瑪夏へ

朝早く起きた。今日は高鐵で台中まで行き、そこで拾ってもらって、高雄の山中に分け入る予定だ。前日高鐵の予約を試み、何とかセブンで支払いを済ませて、チケットを手に入れた。午前6時台に家を出て、7時半過ぎの高鐵に乗る。朝が早過ぎて、台北駅のヤマザキパンすら開いておらず、ちょっと腹ペコ。

 

8時半過ぎに台中駅に着くと、トミーとビンセント、そして彼らの講義をわざわざ受けに来ていた香港人女性も加わり、4人で出かける。まずは高速道路で嘉義まで行き、そこから車は山道へ回る。何故高雄に行くのに、嘉義から入るのか、それは到着する時にようやく分かる。それにしても、思っていたより道がかなり良い。それでも、香港女性は山道に慣れておらず、気分が悪くなったようだが、普段から山に入っている我々には、相当楽な道に思えた。

 

勿論、車はほとんど走っておらず、対向車もない。標高300-400mのあたりで、カーブはあるものの、舗装もしっかりした、かなり平坦な道をひらすら走っていく。途中滝があったので、一休み。そして1時間半ほど走って、あとわずかで目的地、というところで、高雄と書かれた表記に出会う。原住民部落があり、観光客目当ての店などもあったが、人は殆どいなかった。

 

那瑪夏、我々が辿り着いたのはここだった。茶農家、詹宗翰さんとは、3月のFoodexで出会い、茶畑を訪ねたいと伝えてあった。実は昨年梅山瑞里に高山茶の勉強に行った際、『梅山から40年前に那瑪夏に移住して、高山茶を作っている人々がいる』と聞いていた。その息子が詹さんだったというわけだ。

 

ちょうど茶摘みが終わり、製茶機械が稼働していた。早々お茶を飲みながら、こちらの歴史を尋ねる。お父さんも加わり、話が具体的になっていく。1980年代、林業のためにこの地に移住してきたが、ちょうど高山茶ブームが始まり、故郷梅山から製法や機械を調達して、茶作りを始めたという。

 

一時は相当の茶農家が茶を作っていたが、高山茶に陰りが出てきた今、中海抜であるこの地も淘汰が始まっていた。そんな中、青年農家として息子がここに戻り、茶作りに精を出し、販売推進のため、台北はもちろん、遠く日本まで出掛けていたのである。この努力は素晴らしい。希少価値として、また比較的伝統的な製法がウケ、徐々に売り上げを伸ばしているらしい。

 

お昼は弁当を用意してくれ、引き続き話し込む。その後茶畑を見学。烏龍や金萱が植わっている斜面の景色は良く、自然環境に優れている。また車で更に上に上がると、山茶を集めて植えた場所もあり、特色ある茶作りを進めている様子が窺えた。茶樹の背丈は高く、葉も大きめだった。因みにこの山茶がいつからあるのかは分からない。

 

台湾ではみなそうだが、山には昔から原住民が住んでいても、お茶作りと無縁であり、また関心もない。茶樹がいつからあるのかもわからない。ここで茶作りが始まった時も、原住民の労働力が必要だったが、残念ながら、根付かなかったという。現在も一番の問題は労働力の確保であり、人材は本当に限られている。

 

畑から戻ると、激しい雨に見舞われ、動けなくなった。山の天気は変わりやすいとは言うが、まるで嵐のように叩きつけていた。それが収まると、朝来た道を引き返す。香港女性は辛かっただろうが、良い経験にはなったようだ。嘉義まで出て一休み。そこからまた雨が降り出す中、今度は私のために鹿谷へ向かった。

 

暗くなった頃、慣れしたしんだ鹿谷に上がってきた。そこで茶の買い付けに来ていたUさんと落ち合い、皆で晩御飯を食べた。やはり話題はお茶の将来についてとなり、活発な議論が展開されて面白い。食後、Uさんが予約してくれた宿に入り、トミー一行は台中に戻っていった。宿の部屋では引き続きUさんと茶についての話をし、気が付いたらかなり遅い時間まで話し込んでいた。茶業界はどうなっていくべきなのか、こういう雑談は非常に重要だと思う。

 

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