ある日の台北日記2018その3(8)昔の台北を思い出す

11月10日(土)
台北ふらふら

台中から戻った翌日、ちょっと疲れはあったが、タイから観光に来た知り合いと会った。場所はトミーの台北拠点。土曜日なのに、トミー姉に開けてもらい、1時間ほどお茶を飲ませてもらった。こういう場所があるととてもありがたいし、台湾茶の基礎を知る上でも大いに役に立つ。

 

そのまま近くのレストランへ飛び込みランチ。昼間に来るのは初めてだったが、既に店内は満員の盛況。だが向かいの姉妹店に何とか席を作ってもらい、ご飯にありつく。土曜日の昼間、家族連れが賑やかにご飯を食べている。観光客はほぼ見られない。名物の蒸し鶏や美味しいチャーハンなど注文し、堪能。幸せな気分に一人浸る。

 

そこからタクシーに乗り、大稲埕へ向かう。今や私の庭?と化した大稲埕。新芳春の博物館をさっと見学してから、有記銘茶へ進む。バンコックでも王有記の店(親戚)を訪ねていていたので、是非行って見ようということで出掛ける。奥の焙煎室も見学し、お茶も買ってご満悦。次に行く厦門にこのお茶を持っていってみようと思う。

 

それから今話題の場所へ行きたいというのでレトロなスターバックスを探して入る。店舗自体は前を通ったことがあったが、かなりごっつい建築。そして実際に喫茶する場所は2階と3階で、その階段はレトロだ。ほぼ満席で席を確保するのに苦労した。こんなところがあるとは全く知らなかった。やはりたまには観光客目線で旅をしないと、知らないことだらけとなってしまう。

 

スタバでゆっくり休んでから、また歩き出す。大稲埕の昔の茶商街である貴徳街に行こうと思っていたが、ちょうど淡水河の夕日が見られそうだったので、河辺に行く。大勢の人がカメラを構えてその瞬間を撮ろうと集まっていた。思ったよりずっときれいな夕暮れの風景がそこに現れ、驚いた。ここも茶葉を出荷する港としてしか見て来なかったが、こんな風景があるなら、これからたまには夕方に来よう。

 

既に暗くなる中、貴徳街を軽く散策。何となく夕飯の時間になったので、近くの四川料理屋でご飯を食べる。いわゆる中華料理に慣れていない2人と一緒なので、かなり基本的なものを頼む。日本にある中華料理はやはり日本の料理であり、同じ名前でも入っている物から味わいまで、かなり異なっていると言える。美味しいものを頼めるようになるといいな、と思う。

 

11月12日(月)
昔を思い出す

今日は先日も会った黄さんからお誘いがあり、現在調べている王添灯氏の娘さんの家にお邪魔した。二二八事件で父親が連行された時、まだ小学生だったという。そしてその後の苦難の人生の一部をお話頂き、大変参考になった。二二八の犠牲者は当人だけではなく、その家族の人生にも重大な影響をもたらしており、今でこそ話も聞けるが数十年の間、皆が封印して生きてきたことを改めて知る。

 

またご主人の張さんは優秀な成績で大学に入りながら、白色テロの犠牲となり、7年間も投獄されていたという。当時の友人と一緒に写っている写真を見せられたが、張さん以外は全員死刑か行方不明だという惨劇。当時の国民党が一体どんなことをしていたのか、大変興味深いお話しを聞くことができた。

 

張さんの日本語は完璧で、英語も流暢。日本企業で長く勤めていたという。最初は出国もままならなかったが、最終的にアメリカに渡り、子供も孫も皆アメリカで暮らしている。2000年代に入り台湾に戻ってきたが、90歳近い今でも、会社を経営しており、その気力、精神力は凄いとしか言いようがない。

 

1990年以前の台湾の緊張感、今や昔のこととなり、その雰囲気は分からなくなってしまっているが、それを思い出せてくれるよい機会となった。確かに80年代でも戒厳令が敷かれていたが、それでも夜中の12時過ぎても皆が外出し、呑み屋は繁盛していた記憶がある。日本語禁止と言いながら、街中に日本語が溢れ、おる年代以上の多く人が日本語を話し、かなり形骸化されていたと思う。

 

だが日本語で昔話をする時に、どうしても周囲を見回してしまう老人、個室に入って2人きりでしか日本統治時代の話をしない企業人など、最初はよく理解できない光景を何度も目にしていた。中には『こんな話をしていると特高が来るんだ』と真顔でいう人もいた。今では笑い話のようだが、当時は光復後に台湾人を襲った横暴、悲劇を皆が抱えており、あまり油断はできない、という雰囲気があったものだった。特に一族が何らかの災難に遭い、目を付けられていると認識していた人はそうだっただろうと今にして思う。

ある日の台北日記2018その3(8)昔の台北を思い出す」への1件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です