ある日の台北日記2018その3(6)台中で茶の歴史談議

11月8日(木)
台中で

翌朝は何となく眠いまま、起き上がる。朝食は付いていたのでホテルで食べたが、食欲はそれほどなかった。今日は台中へ移動する。何しろ駅は目の前だから、移動は簡単だった。ここから区間車に乗り込み、台中駅を過ぎ、大慶駅で下車する。約束しているトミーからここを指定されたからだ。台中駅前も車を停めるのは難しいのでこうなったらしい。

 

トミーの車で向かった先は、製茶公会が紹介してくれた張瑞成氏の自宅だった。張氏は光復後長らく農林庁に奉職し、現代台湾茶業に果たした役割は実に大きい。9月のお訪ねしたレジェンド、林復氏の農林庁での部下に当たり、東部開発からコンテスト開催まで、その実行部隊であったという。第1回鹿谷コンテスト(1976年)では、あのレジェンド、呉振鐸氏と並んで審査員をした方でもある。

 

現在86歳だという張氏だが、驚くほどに元気で、何と2時間半もの間、自らお茶を淹れてくれ、こちらの質問に対して話し続けた。しかも記憶がはっきりしており、的確に答えてくれる。これは本当に驚いたし、何とも有り難いことだった。因みにお茶も老茶が多く、歴史的なものだった。

 

張氏の話、勿論お役人から見た歴史ではあるが、実に示唆に富んでいた。やはりお茶の歴史は茶農家や茶商に話しを聞くと同時に、政府側の話、政策や時代背景なども聞き、それを踏まえて、文献などに当たるのがよいと分かる。張氏は話だけではなく、自ら執筆した本も提供してくれたので、これを読めばわかる部分が多いようだ。因みに張氏は現在のコンテスト運営に対しては、かなり異論があるようだった。それはある意味で我々も感じていることで、共感できる部分がある。

 

そういえば、張氏は日本との関係もかなりあったようで、1998年に農林庁を退職した際には、日本輸出茶協会から紀念のプレートが送られており、今も大事に飾られていて、その親しい様子が見えた。台湾煎茶の日本への輸出なども、張氏が関わっていたことは間違いがない。光復後、台湾茶業が荒波に晒される中、『台湾茶の輸出』そして『輸出から内需への転換』と何かと茶業の発展に尽くした張氏の姿が目に浮かぶ。

 

長い時間話しを聞いたのち、失礼した。もう午後1時に近い。取り敢えずトミーの家に向い、そこで弁当をご馳走になる。午後は2階の部屋で半日、台湾紅茶の歴史について話しをした。トミーも台湾紅茶の講座を開いており、知識の補給が必要であろう。私も久しぶりで忘れてしまったこともあったが、これまで台湾でも日本でもあまり取り上げられてこなかった人々の歴史を、トミーを通じて台湾人に知ってもらえるのは嬉しい。日本統治時代の台湾茶業は新井耕吉郎さんだけが行っていた訳ではないのだ。最後の所長に注目するのではあれば、最初の所長にも注目してもらいたい。

 

夜はトミー家の前に軽井沢、という名前の日本料理屋が出来たので行ってみようとしたが、何と満席だと断られてしまい、驚く。日本料理屋はこれほどに繁盛しているのだろうか。どうやら店の外観、そして内装などが斬新で人気を集めているらしい。いつか一度行って見てみよう。夕飯はいつものように、小籠包の店に行き、好きな物を思いっきり食べて満足する。

 

それから台中駅近くに予約してもらっていた宿に送ってもらう。恐らくは古いホテルを改造してきれいにした感じの宿。窓もない、こじんまりした部屋だったが、寝るだけならこれで十分。昨晩の部屋が大き過ぎたのだ。ただ何となく送風が止まらず、涼しいので、シャワーを浴びるのを止め、昨日からの疲れもあり、早々に布団を被って寝てしまった。

 

11月9日(金)
杉林渓へ

翌朝、宿の周囲を散策すると、古風な居酒屋、大衆酒場があった。今や単なる日本の居酒屋ではダメなのだろうか。今日はトミーに加え、ビンセントとチャスターもやってきて、賑やかに山を登る予定となっていた。車が出発してすぐに、電話が入り、台中で寄り道することになる。

 

住宅街の中、と言う感じの場所に、その茶館?はあった。若い女性が3年前に開いたという。初めは場所柄もあり、お客が来なかったようだが、友人たちが集ううちに、徐々に知られるようになり、今は経営も軌道に乗っているらしい。オーナーは鹿谷出身であり、実家から来るお茶などの販売も行っている。非常に気楽にお茶が飲める場所であり、またかなりこだわりも感じられるお店。これからはこんな場所が流行っていくのかもしれない。

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