ある日の台北日記2018その1(3)大稲埕 茶商の末裔

5月23日(水)
大稲埕 茶商の末裔

4月に訪れた大稲埕の福記。前回は王泰友氏の息子が留守だったので、もう一度訪ねることにして、アポを入れた。大稲埕は今は正直不便なところ。MRTの駅からも遠く、バスもすぐ近くまで行ってはくれない。仕方なく、今日も中山駅から歩いて向かう。圓環の先まで行くと、天馬茶房と書かれたビルがあり、この付近で二二八事件の発端が起こったとの碑がある。昨日相当事件について勉強したので、思わず足を止めた。

 

延平北路を北に向かう。この辺りは日本時代に台湾民主化運動などの拠点があったところ。往時の展示がある場所にちょっと寄り道。色々な展示があるのに、私が注目してしまうのはお茶関連ばかり。どう見ても、これはちょっとまずい状況だと言えるが、それだけ集中して一つのことをやろうとしている表れと、いいように解釈しよう。更に歩いていくと、労働部、という比較的新しい建物があった。ここは日本時代初期、郭春秧の錦茂茶行があった場所らしいが、残念ながらその痕跡は全く発見できない。

 

福記に行くと、王泰友氏の息子、平雄氏が待っていてくれた。前回訪問時に色々と教えてくれた彼の奥さんと息子さんは、お客対応に追われていた。王さんから、彼が子供の頃の話、比較的最近の話などを数多く伺った。何しろ泰友氏は100歳まで生きたので、未だ亡くなって10年ぐらいしか経っていない。しかもその奥様は、100歳で元気なのだから、何とも歴史が近い。泰友氏が包布球法を教えた場所、人名などが細かく出てくる。晩年まで、四両の茶葉を紙で包んでいたともいう。

 

福記を辞して、そのまま茶商公会に向かう。ここも7年前に訪問した記憶はあるが、その後完全にご無沙汰していた。中に入ると、やはり色々と資料があり、総幹事から説明を聞く。徐英祥先生が纏められた茶商公会の日本時代の本もある。日本時代の冊子も残っている。古い茶缶も展示されている。当方が台湾茶の歴史を勉強しているというと、何人かの茶商の末裔を紹介してくれた。

 

ここには当然ながら、様々な情報が集まってくるのだが、如何せん日本統治時代の資料には乏しいと、総幹事は言う。それでその末裔を訪ねて、少しでも参考になるのか、トライしてみることになる。因みに昨日急に調べ始めた王添灯氏、弟は90歳過ぎまでここの総幹事をしていたし、兄は光復後も大きな茶商であったと聞き、驚く。また台湾烏龍茶の輸出の初期に大いに関わった買弁、李春生の子孫も沢山いるという話だった。ちょっとワクワクして、連絡先を聞く。

 

それからちょっとフラフラする。大稲埕公園はきれいなところだが、このあたりから大稲埕が開発されたと紀念碑に書かれている。開発したのは先ほども出てきた李春生と板橋の林家。公園の周囲には、まだ古い家が残っており、少しだけ往時を偲ばせるが、その向こうは乾物屋や薬局などが立ち並ぶ観光地になっており、日本人も沢山歩いている。その先に埠頭がある。

 

ゆっくり夕方の散策をしてから、歩いて中山北路まで戻る。それほど暑くないので、歩けてしまう。夜はSさんに誘われて、台北で唯一?の沖縄料理屋に行ってみる。料理は定番が並んでいたが、雰囲気はちょっと沖縄的。働いていた女性も沖縄から来たという。昔香港に住んでいた時、よく行った沖縄料理屋をふと思い出す。私は泡盛のシークワサー割だけをごくごく飲んでいた記憶がある。

 

台湾と沖縄の関係、それは日本と台湾の関係よりかなり濃密なはずである。距離的な近さだけでなく、文化的、歴史的な部分が格段に近い。沖縄料理を台北で食べながら、どうしても、この2つの地域の悲哀、日本統治時代の競争関係などに思いが至ってしまう。特に戦後の混乱期、同じ日本の領土であった2つの地域が、1つは国民党、1つはアメリカに占領され、その中で茶を含めた物資の貿易が行われていたことなど、なかなか表に浮かび上がってこないのだ。お客さんも少なく、何となく寂しい夜だった。

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