ある日の埔里日記2017その5(4)新店の包種茶

10月24日(火)
台北へ

昨日台北の近くまで行きながら、埔里に帰った。しかし今日から数日は台北に滞在することになっている。これなら昨日のうちに台北へ行けば楽だったはずだが、まあ旅とはそんなものだ。効率的な動きをすればよいというものでもない。包種茶の歴史を調べる為の準備も必要になる。結局午前中はその準備に追われ、慌ただしく荷物をまとめてバスターミナルに向かった。

 

午後3時発の台北行きバスに乗り込む。週末に比べてバス代が少し安いのがよい。ただ夕方の到着なので、渋滞などでの遅れが気にかかる。特に新竹あたりが込み合うらしいが、この日はそれほどひどい状況はなく、6時過ぎには台北に入ってしまった。今晩も葉さんのところに厄介になる予定なのだが、LINEしてみると『まだ会社にいる』というのだ。

 

取り敢えず最寄り駅まで行き、どこかで食事でもして暇をつぶそうかと考えた。駅を上がるとふと思い当たることがあった。確かこの近くに茶荘があったはずだ。探すとその店はすぐに見つかった。茗心坊、ソロっと入っていくと、林さんがそこにいた。FBではお互い見ているので、1年ぶりとは思えない。

 

ここに荷物を置いて、お茶を飲みながら、葉さんの帰りを待つことになった。何とも有り難いことだ。おまけにお茶のヒントももらえるし、お茶の本まで頂戴してしまった。林さんが得意の高密度焙煎によって作られたお茶、これを球形にして保存する活動も更に進んでいた。何年経っても飲めるお茶、面白い。

 

約1時間お邪魔して、帰って来たとの連絡を受け、葉さんの家へ行く。鍵を受け取り、それから食事に出た。この付近にはレストランは沢山あるが、なぜか吉野家へ向かう。日本ではまず行くことはないのだが、なぜか台湾だとたまに行きたくなるのだ。それはきっと28年前、単身赴任していた時、良くタクシーに乗って吉野家に行ったことが頭から離れないのかもしれない。牛丼とコーラ、このあり得ない組み合わせに嵌ってしまい、その後苦労した。だが今では台湾の吉野家にもこの組み合わせはない。

 

10月25日(水)
新店の山の上

翌朝は9時前に宿を出て、近くの銀行に向かう。9時ちょうどに銀行が開き、両替を行う。どうも埔里の両替レートは低いのではないかと思い、台北で行ったのだが、結果はあまり変わらない。台湾ドルが強くなっているだけなのだろう。ビル内のトイレに入ると、禁止事項が絵で示されていたが、何と便座で逆立ちしている絵を見て、思わず『台湾人凄い!』と思ってしまった。

 

それからMRTに乗り、新店駅へ向かう。今日は先日紹介された黄さんに会いに行く。彼は『実は包種茶は新店が発祥だという先生がいる』と言い、その先生とは何と家のゴミ出しで知り合ったというのだから、いかにも台湾的だ。その先生に話しを聞きたいとお願いした訳だ。

 

黄さんが迎えに来てくれ、山道を走る。彼の家も駅から4㎞離れているというが、すぐに山になる。そのままドンドン山の中へ。聞けば先生のところではなく、別の場所を訪ねるというのだ。着いた場所は、完全に山の中の一軒家。そこからは台北が一望できるほど、景色は良い。

 

ここに高さんが居た。高さんの家は代々お茶を作ってきたが、今も細々と続けているらしい。この家はお客がくれば、お茶を出し、食事も出す、レストランにもなっている。ここで高さんから新店の包種茶の歴史を聞き、大いに勉強する。包種茶の発祥は南港なのは間違いないが、そこから皆が学んでいき、新店では素晴らしい作り手が出たという。だが1960年代には、既に茶畑は無くなり始め、包種茶も見られなくなったらしい。

 

昼時になり、ご飯をご馳走になった。肉団子のスープに麺を付けて食べるつけ麺、台湾で初めて食べたがうまい。野菜も新鮮でよい。思わぬご馳走に唸る。このいい景色で、美味しい料理、黄さんも初めて来たと言い、今度は新店在住者で再訪したいと言っていた。これも茶旅の副産物だろう。

 

高さんが『文山農場に行こう』と言い、車2台で出かけた。山をだいぶ下ったところに、農場はあった。ただ今は農場というより、キャンプ場、BBQ場として使われているらしい。その中に古い製茶場が残されている。今は観光用として、簡単な展示が行われている。ここが昔の茶業伝達場だったというから、包種茶の講習会も行われたのではないだろうか。

 

因みに農場の入り口付近には石碑が建っていた。そこには1916年に道路が修繕されたとあり、大稲埕の会社が資金を出したらしい。これはこの付近に当時人がかなり住んでおり、且つ何らかの産業が営まれていたことを示している。これが茶業である可能性も高いのではないだろうか。

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