ある日の埔里日記2017その5(3)樹林で骨董を見る

10月23日(月)
樹林で骨董を見る

今日はトミーの車に乗せてもらうため、朝台中に向かった。高鐵駅でいつもの待ち合わせ。もう慣れてきた。そこからどこへ行くのか。元々は新竹県横山へ行きたいという希望を出していたのだが、残念ながら前回会った陳さんは不在だという。横山に茶畑はあるのか、包種茶は作られていたのか。そんな疑問を解明したかったのだが。

 

トミーの車は新竹付近のサービスエリアで休息はしたが、更に走り始めた。どこへ行くのか。30分ぐらい走ると電車が走っていた。もう台北にかなり近づいている。樹林という駅が見えた。ここは自強号などの始発になっている駅ではないか。そこで車は停まり、地下の駐車場に入った。

 

ちょっと渋い茶荘に入る。そこには許さんが待っていてくれた。ここで20年ぐらい茶荘をやっているらしい。名刺をもらうと中華茶芸促進会の会長さんだった。今や茶荘というより、特別な茶館というイメージ。2階に上がると更に骨董系の品々が並んでいる。一体なぜここに来たのだろうか。

 

話は茶の歴史になる。すると許さんは本を持ち出してきた。それは1923年に当時の総督府がアメリカで烏龍茶のプロモーションを行うために作った英語版だった。その中にはきちんと烏龍茶と包種茶を分けて説明しているのが興味深い。それからいくつもの資料を見せてもらい、大いに勉強する。

 

昼時に奥さんが買ってきてくれたお弁当は、何と吉野家の牛丼だった。これは意外と有り難い。台湾の弁当は大体似たり寄ったりだから、たまに牛丼が食べられるのは嬉しい。食後にすっきりしたいいプーアル茶を頂く。台湾茶芸の歴史についても聞きたいと思ったが、『それは別の機会に』と言われてしまう。

 

そして茶荘を出て裏へ行く。今は使われていないが、昔は百貨店だったという。この辺で初めてエスカレーターが設置されたというから、歴史的建物だ。そこの2階と3階が許さんの倉庫だった。何とも驚くほどの物品を収集している、彼はいわゆる収蔵家だったのだ。そしてそこに置かれている物は実に興味深い日本時代のものが沢山あったが、時間的制約で、今回は茶関連だけを拝見した。すごいものが一杯あった。次回はもっと時間に余裕を持って見せてもらいに来よう。

 

横山郷へ
車は新竹方面へ戻っていく。今日の目的地は横山郷だが、先ほどの許さんも、横山郷には既に茶畑はなく、何も掴めないだろうという話だった。ただそのまま帰るのも癪なので、沙坑茶会の許さんのところへ寄ることになった。許さんとは日本でも台湾でも何度か会っているので、ざっくばらんな話を聞こうと思う。

 

古くて、大きな茶工場の前に立つ。往時はここにトラックが横付けされ、茶葉運び出されたと聞く。中を覗き込むと、何人かの人がいた。よく見ると、何と白老師がいるではないか。彼女とは10年以上前に東京で知り合い、2年ぐらい前に台北で再会していたのだが、まさかここで出会うとは。向こうも驚いている。

 

彼女はお茶を世界中に広めようと活動しているが、何と今回はメキシコの生徒を連れてきていた。その生徒は日本にも2週間滞在し、台湾にも同程度滞在するらしい。メキシコのお茶好き、想像すらしなかったが、彼女らは台湾茶、特に東方美人に興味津々だ。許さんも英語で応対している。世界は広いのだ、と再認識。

 

それから許さんから横山郷の茶について話を聞く。彼は私同年代だが、幼い頃にはあった茶畑が今は全くなくなったという。茶工場だって、とうとうここ以外無くなってしまった。1930年代にここで包種茶が作られていたとしても、それは大稲埕に持っていってブレンドするための原料茶だろうと推測する。

 

『茶の歴史など話しても、みんな寝ちゃうだろう』と許さんははっきりと言う。さすが商売人だ、歴史より、儲かることに皆の興味はある、ともいう。本を出すなら、『歴史の本ではなく、台湾の老舗茶荘、茶工場を紹介する本を出せ』という。そうすれば紹介された店の主人は必ずその本を買い、知り合いに配るのだから、100店舗の紹介をすれば、採算は合うだろうというのだ。面白い。ただこのような本は既に10年前に一度出されているので、まずはこの本を参考にしよう。

 

辺りが暗くなり、許さんのもとを失礼した。トミーは夕飯を食べようと言い、関西の街に入った。そしてあの美味しい客家料理の店を目指す。この店、何を食べてもうまいのだが、客家料理としてはやはり内臓系に興味が集中する。若干の酸っぱさがよくご飯に合う。何とも黙々と食べてしまった。それから台中まで送ってもらい、バスで埔里に帰る。

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