ある日の埔里日記2017その4(9)緑茶やら包種茶やら

9月25日(月)
竹山から名間へ

先週魚池の李さんと会った時、『台湾の緑茶ならいい人を紹介するよ』と言われていた。ちょうど都合がよかったので、今日は李さんに連れられてそちらへ行ってみることにした。李さんが態々埔里まで迎えに来てくれ、車を飛ばす。目的地は名間だったが、まずは彼の用事で竹山に向かう。

 

竹山の郊外、場所はどこか分らないが、大きな木のある家を訪ねていく。小さな店でお母さんは檳榔を作っていた。この家の李さんは茶を商いながら自らも作っているという。魚池の李さんはここに茶の包装用パックを買いに来た。何だか話はよく見えないが、面白そうだ。李さんが作ったという紅茶や烏龍茶を飲ませてもらう。とても熱心な人だ。

 

どこかで見たことがあると思っていたら、3月に新竹の沙坑茶会で出会っていた。やはり世の中は狭い。たしか彼は熱心に日本の手もみ技法を赤堀さんから学んでいたはずだ。二人の李さんは、基本的には談笑しているのだが、茶が入ると突然真剣な顔になり、論評し合っている。まさに切磋琢磨と言った感じがよい。

 

それから名間へ行く。この辺の距離はバスで来たら大変だが、車なら非常に近い。表の看板に蒸青緑茶と書かれているその茶工場は新鮮だった。横には茶畑もある。台湾でこのような看板を見るのは初めてだ。中に入りと林さんが待っていてくれ、色々と茶の話をしてくれた。従来台湾では煎茶はもう生産されていない、あまり好まれないなどとも聞いていたが、最近は様子も随分と変ってきており、また日本との関係、抹茶ブームなどもあり、ある意味、ビジネスチャンスは広がっているらしい。これはやはり現地に来て実際に聞いてみないと分からないことだ。

 

高速道路での帰り道、南投サービスエリアに立ち寄った。ここで昼ご飯を食べる。最近台湾のSAはかなり充実してきている。大手企業が請け負っているとかで、非常にきれいだ。ただ日本に比べるとまだまだ現地特産品の売り込みなどは弱く、ご当地グルメ的な店も少ない。どこに行っても同じようだ。

 

9月27日(水)
関西へ

今日はトミーの誘いで、新竹へ行く。いつものように高鐵台中駅で待ち合わせて、彼の車で向かう。行先は横山という場所。それがどこにあるのか全く分からず、ただ付いていく。今日はトミーの弟子?チャスターも一緒だ。横山という電車の駅があった。北埔方面へ行く途中のようだ。

 

陳さんの家に招き入れられた。この付近は客家の人が多く住み、彼もまた客家、そして客家文化などを研究し、この横山地区で論壇を作って、勉強しているという。60年ぐらい前に建てられたという客家様式の家に住む陳さん。室内には様々な資料があり、それを見せてもらいながら茶を飲む。客家人の歴史、精神など、それは実に興味深いテーマである。

 

『昔は横山にも茶畑が沢山あった』と言いながら見せてもらった資料の中に目を引くものがあった。そこには横山包種茶というポスターがあり、1930年代には相当量が輸出されたとある。1970年に最後の工場が閉鎖され、横山包種茶の時代は終わったらしい。そして現在は、残念ながら茶畑はない。それでもこの事実は全くの想定外。包種茶と言えば、坪林、または日本時代の文山地区で作られたとばかり思っていたので、相当のインパクトがあり、これについて調べる気になる。

 

昼ごはんは関西鎮に行き、客家料理屋に入る。ここの飯も非常に美味かった。どうして客家料理はこんなに美味いのだろうか。炒め物をご飯で食べると何杯でも食べられそうになる。ちょっと酸っぱかったり、辛かったりと味も絶妙な感じだ。いつもこんなものが食べられれば幸せだな。

 

午後は錦泰製茶工廠にお邪魔した。以前関西では関西紅茶会社を2度訪問しているが、同時期に製茶をはじめ、今も茶を作っている工場があるというのでこちらにも来てみた。1936年創業、関西紅茶と同姓の羅さんという客家人が設立し、紅茶や包種茶を作っていた。光復後は煎茶も作っていたという。

 

奥の部屋には年代物の品々が仕舞われていた。相当古い茶も保存されており、その歴史が窺われる。更には工場を見学すると、日本製の製茶道具があり、多くの日本企業と取引があったことが分かる。実は現在でもある日本企業に長年に渡り烏龍茶を供給しているのだ。この工場の設備は骨董品のようなものもあるが、現役工場だ。案内してくれた羅さんは70歳を超えており、後継者はいるのか心配になるが、このような工場は続いてほしいと思う。

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