ある日の埔里日記その3(11)廬山温泉へ

5月24日(水)
廬山温泉へ

昨晩宿へ帰ると、近所のおばさんから『早くシャワーを浴びなさい。今晩9時から丸一日断水だから、トイレに水を溜めておいて』と急に言われる。後で見ると確かに張り紙があったが見落としていたようで、おばさんに感謝してすぐに言われた通りにした。寝る前に歯をみがいたが、水は普通に出ており、且つトイレの水も問題なかった。まあ台湾だから時間のズレもあるだろうと思って寝た。

 

だが翌朝も何の問題もない。しかも下の店は通常通り開いている。朝飯を食べながら聞いてみると、『ああ、屋上に貯水槽があるから1日ぐらいは問題ないよ』と言われて唖然。天気が怪しげだったので、昼間はどこへ行こうかと考えていたが、その必要は無くなっていた。ただ急に晴れ間が見えたので、思い立って廬山温泉を目指してみる。

 

いつものようにバスターミナルへ行き、バスを探すが、平日の午後廬山温泉へ行く人などいない。地元の老人が数人乗り込んだが、すぐに降りてしまい、霧社までに中国から来たスーツケースを持った女性3人組だけになる。ただ霧社では学校帰りの子供たちが乗り込んできて賑やかになる。霧社からは山道をくねくね。バスを降りた子供2人がけんかをはじめ、お互いを叩き合っているのに、ちょっとビックリ。

 

1時間半で廬山温泉に到着したが、バス停近くの商店街は余りにもひっそりしていて寂しい。実は私は1989年の暮れ、廬山温泉に1泊したことがある。当時はお客も多く、賑わいがあったと覚えている。その時泊まった温泉旅館を経営していたのが、あの霧社事件で逃れた高山初子さん(花岡次郎夫人)とそのご長男(事件当時初子さんのお腹の中にいた)だった。そこで初めて霧社事件について、彼女の口から出る流ちょうな、そして淡々とした日本語で聞いたわけだが、その時までこの事件の存在すら知らず、全く理解できなかったのを覚えている。

 

その時の旅館はもうないようだ。既に初子さん、ご長男とも他界されたと聞く。私はないとは分っているが、何となく当時の面影を求めて彷徨う。だが、川には吊り橋?が掛かり、高所恐怖症の私の前途を遮った。この橋には見覚えがある。ずっと回り道すると、普通の橋があり、そこから登ってみる。

 

その先にはいくつか温泉宿が開いてはいたが、もう風前の灯。ここは2008年、2012年に起きた台風・洪水で大きな被害が出ており、政府としては安全面からこの温泉郷全体の閉鎖を促しているが、まだ一部が応じていないのだ、という話もあった。その先はもう何もなさそうだったが、バスの時間まで間があったので散歩してみる。天仁銘茶のホテルなどがあるが、やはり既に閉鎖されている。少し古い建物が見えるが、そこはこの地を好んだ蒋介石ゆかりの蒋公行館。今は特に使われていない。

 

そこから山を登っていくと、マヘボ社という石碑に出くわす。ここが霧社事件の首謀者、モーナルーダオの部落であった。その上に記念碑があるというので上って行くとかなり時間が掛かってしまう。何とか碑を見つけたが、そこには抗日英雄、莫那魯道という文字。何となく違和感あり。廟に入っても、中国式の構えになっており、どう見ても原住民が作ったとは思えない。不満はあるだろう。僅かに香炉にタバコがさしているのが、ささやかな抵抗なのだろうか。

 

ふと気が付くと雨が降り出し、その雨は次第に強くなり始める。私は帰るタイミングを逸してしまい、ただ廟の脇にたたずんでいる。そして先日初めて見たセデックバレという映画を思い起こしている。原住民を単に可哀そうだとか、英雄視するとか、それはどうも違うように思う。彼らはこの山の中で昔から受け継がれた生活をしたかっただけだろうが、時代がそれを許さなかった。それは罪なのか。モーナルーダオが私に考える時間を与えてくれたのだろうか。

 

小雨になったので急いで山を下りた。バスの時間が迫っていたのだ。ところが温泉街まで来るとまた雨が強くなる。強くなるどころか、豪雨になってしまったが、雨宿りしていては、次にバスは1時間半以上ない。あたりも暗くなる。道は濁流のようになり、足はずぶ濡れとなったが、それでも傘を差して前に進んだ。何とかバス停に到着したが、お客は誰もいなかった。私が乗りこむとすぐに発車したが、車内は冷え込んでおり、風邪をひきそうになる。これは何か啓示なのだろうか。

 

埔里に戻ると、雨がすっかり止んでいる。異常に腹が減り、終点まで行かずにバスを降り、ワンタンの店に飛び込む。ちょっと冷えた体にワンタンスープがしみいる。何となく夢を見ているような1日だった。

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