ある日の埔里日記その3(7)皇太子が泊った部屋、そして魚池改良場で

5月12日(金)
皇太子が泊った部屋

今日は恒例の金曜日、黄先生のサロンの日だった。Iさんの車に乗せてもらい、アトリエに向かう。ここには埔里在住日本人が集まってくる。埔里と言えば、一時期日本人のロングステイヤーを募っており、多くの人が住んでいると聞いていたが、その後ブームは下火になり、今はご縁のある方々が十数名、リストに上がっているという。

 

このサロンに来るとちょっとした面白い話が聞けるからよい。今日は作家の佐藤春夫が1920年に埔里に来たと聞いた。佐藤春夫を研究している日本人が態々ここまで来て色々と調べて行き、それが本になっているという。このサロンにこの本の中文訳があり、しばし眺める。

 

埔里に来たと言えば、昭和天皇が皇太子であった1923年に台湾を訪れたことは有名であるが、この埔里にも宿泊したと黄先生が言う。そして何と皇太子が泊った部屋はこのアトリエの横に移築されているというから驚いてしまう。当時は日月館という宿を日本人が経営しており、何かの都合で日月潭ではなく、ここに泊まったとある。この日月館を光復後、譲り受けて経営していたのが、黄先生のご一家だというからすごい。因みに日月館は埔里のバスターミナル前にあったが、今は取り壊されている。

 

とにかくそのお部屋を見せてもらった。木造家屋の中に入ると、広々とした10畳ぐらいある和室、床の間があり、色々と飾りもある。屋根や壁は修繕されているようで意外ときれいだった。やっぱりちょっと緊張してしまう。トイレをお借りすると、これまた昭和レトロな雰囲気だった。

 

実はこの部屋は皇太子が来るから建てられたのではなく、その10年前、1912年に5代総督佐久間左馬太がこの地を視察する際、作られたのだという。しかも翌年も再訪しており、総督がこの辺鄙な地に2年続けてくるという異例の行動の裏には、理蕃政策があったと言われている。佐久間総督は明治天皇の信任が厚く、特に天皇が亡くなっても、台湾全島が天皇の命に従っていない現状の打開に努めたはずだ。原住民にとっては迷惑な話だが、植民地とはそういうものだろう。

 

5月15日(月)
茶業改良場で

土日は観光客などが多くなり、バスなども込み合うため、大人しく埔里で引き籠り。そして今日は先日出会ったSさんが、魚池の改良場に行きたい、というので、先方に連絡を取ると『ちょうどいい。新井さんのお孫さんが来るから来たらどうか』と誘われる。新井さんとは、昨今有名になった試験支所最後の所長、新井耕吉郎氏のことである。ただお孫さんが何の用事で来るのかなどは全く分からないまま、取り敢えず訪ねることにした。

 

Iさんの車に乗り、Sさんと奥さん、そして赤ちゃんで日月潭に向かう。昼前に出発し、昼ごはんはS奥さんイチ押しのお店へ。日月潭、水社の街を過ぎ、ちょっと寂しくなったところにそのお店はあった。丼物とおでんの店。そこで角煮丼とおでんを少々つまむ。面白いのはここの奥さんはタイから来たという。バンコック付近の出身だが華僑ではない。ただもう10年以上台湾に住んでいるので中国語に問題はない。

 

それから少し戻り、坂道を上がると改良場がある。一般人はここまで登れても中には入れないが、今日は約束があるので、入れてくれる。ここから眺める日月潭の風景は最高だ。Sさんは改良場の場誌を見たいというので見せてもらい、我は昨今の茶業事情などの情報を得ていた。

 

そこへ新井さんのお孫さんがやって来た。奥さんとそのお子さん2人と家族旅行とのことで、我々も加わり、話し始めた。お孫さんは新井さんのお嬢さんのお子さんで、苗字は新井さんではない。勿論台湾生まれでもない(お母様はいわゆる台湾生まれの湾生、15歳までこの地で過し、終戦で帰国している)。この後、お母様の通った小学校も訪問するという。

 

あの1938年に建てられた茶工場の前に立った。お子さんと言っても二人とも成人して、仕事をしている若者がそれを見て『うちのご先祖が台湾でお茶を作っていたとは聞いていたが、まさかこんなに大きな、立派なものを作り、今でも台湾の人から尊敬されているなんて夢にも思わなかった』と感慨深げに眺めていた。そう、功績は大きいが、わずか数年前まで茶業関係者ですらその名を知らなかった新井さん。突如偉大だと言われても遺族は戸惑っただろう。

 

 

記念館に入り、様々な展示物からその功績が更にビジュアルに見られる。そして許文龍氏作成の胸像を前に記念撮影。今回の旅は家族の歴史を受け継ぐものとなっただろう。眼下に見える茶畑、『恐らくあのあたりに埋められたと聞いたが、今は何も残っていない』とここで亡くなった新井さんのお墓がないことを悲しむ。戦後すぐに混乱状況ではそれも仕方がないか。

 

最後に改良場に上る道の途中にある記念碑にお参りした。私は何度もこの碑を見てはいたが、きちんとお参りしたことはない。改良場の場長は歴代、朝ここにお参りするのが習わしだと聞いたがどうだろうか。台湾式のお線香をあげ、皆で手を合わせた。偉人の功績は静かに称えるものだ、と心で思った。

 

帰りがけ、Sさんが『コーヒーを飲んでいきましょう』という。車は魚池の山の中に入り、こんなところに店がある訳ないだろうという場所に停まった。まさにそこは木々に覆われた大自然のコーヒーショップだった。風景を見ながら飲もうと先端に出て行くと突然嵐のような大雨に見舞われ、退散する。

 

この店のオーナーはコーヒーに深いこだわりがあり、自らコーヒーを栽培・焙煎し、自ら淹れてくれた。ご自慢の珈琲を何種類も出てくるのには驚くしかない。嵐の中で飲むコーヒー、この感覚は新鮮だった。雨がほぼ止むまで、コーヒーの嵐が私の中を駆け巡っていった。

1 thought on “ある日の埔里日記その3(7)皇太子が泊った部屋、そして魚池改良場で

  1. 何時も茶旅を楽しく拝読しています。
    神戸市中央区楠公神社前にありました100年以上の老舗茶商「菅園」をご存知と思います。私は同本家の分家故菅和三郎の息子で現在89才タイに住んでおります。神戸大震災後間もなく菅園が廃業し当時社長?の私の従兄弟菅英夫一家の消息も不明であるのを10数年前に知り心配しております。何か情報をお持ちでしたらよろしくご連絡下さい。

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