ある日の埔里日記2017(9)霊厳山寺と埔里酒廠

120日(金)
霊厳山寺

 

翌日も天気が良かった。お昼に炒飯を食べたいと思い、出掛ける。台湾のチャーハンは大陸よりうまい、という印象を持っていたが、埔里でうまいチャーハンを見つけることはできていなかった。昨日行った日式料理屋、そこで親子丼を食べたが、その向かいにある店がなかなか良いとの情報があった。因みに親子丼は、悪くはないが、やはり日式である。中華鍋で作る所がよい。味噌汁は甘い。

 

麻油炒飯と書かれているが、何のことだろう。聞いてみたかったが、店員はいない。地元の常連さんが『そこの紙に自分でオーダー書いて、厨房へもってけ』というではないか。持っていくと、『そこに置いといて』と素っ気ない。果たして作ってもらえるのか。ちょっと時間はかかったが、チャーハンが出てきた。見た目は美味しそうだ。だが何か麻油かはわからず仕舞い。スープは無料で付いてくるのでまあいいか。

 

今日はWさんに自転車を借りる。ちょっと行ってみたいところがあったのだが、歩いて行くには遠い。バスは殆ど走っていない。そこで自転車となる。埔里の街を南方面へ走る。川を越えて、更に漕いで行くと、何となく重い。空気がちゃんと入っていない感じだ。更には凄くなだらかだが登りなのだ。

 

何とか漕ぎ切り、着いたところはお寺。霊厳山寺という名前だった。なぜここに来たのか。それは昨年11月末、バンコックでヨーガの合宿に参加していた時、夜のビデオ鑑賞で、NHKスペシャルを見た。台湾の仏教について語られている中、このお寺が登場したので、記憶に残ったという訳だ。そこでは台湾において、女子の出家が認められており、この寺に沢山の出家尼僧が集まるという内容だった。

 

埔里になぜ大きな寺が多いのかという謎は前回の中台禅寺でも考えたが、答えは得られていない。もしやここに来れば何かわかるかも、という期待もあった。入口に自転車を停め、坂を上り始める。かなり急な階段には『開山30周年』と書かれている。やはりここの歴史も30年程度だった。恐らくは台湾政府の政策と何らかの関係があるのだろう。

 

上っていくと、途中に廟がある。そしてその上の大雄寶殿がデカい。近寄っていったが、1階はガランと広い。2階以上は宿舎かな。この寺について知るすべはない。まごまごしていると一人の女性が声を掛けてくれたが、今は殆ど人がいない時期だと告げられる。『20年前の日本のテレビで見たお寺なんですが』と言ってみても、『昔のことは分らない』と言われてしまう。それでも色々と探してみると、1999年の大地震で寺が倒壊したこと、その後いち早く復興したことが分かった。つまり私がNHKで見た寺は、やはり地震で無くなっていたのだ。

 

この小高い場所から眺める埔里の街は爽快だった。その背後には新しい大雄寶殿、そこに立っていると先ほどの女性が現れ、『108回念仏を唱えたら、お水がもらえますよ』と笑顔で言って去っていく。観音様に向かって念仏を唱えようとしたがうまくできずに諦める。信心が大いに足りない。

 

また自転車に乗り、街に戻る。折角自転車に乗っているので、埔里酒廠にも行ってみた。ここは6年前に行ったと思うのだが、記憶がない。酒廠の建物、1階は紹興酒を含めて、土産物屋になっている。私は真っすぐ2階へ。酒廠の歴史を勉強する。1917年、日本時代に作られていた。当時の専売品目には、酒やたばこ、塩や樟脳と並んでアヘンと書かれているが、茶は入っていない。

 

元々埔里は水がよい場所だったという。今でも埔里の水はある意味で台湾のブランドになっている。日本時代は清酒の製造が主流だったとあるが、光復後は接収され、紹興酒の生産が始まる。巷では紹興酒は蒋介石の地元の酒であり、好きだったから作らせた、などと言われるのを聞いたことがあるが、さすがにそんな歴史はどこにも書かれていない。ただ介寿酒という、蒋介石の誕生を祝う酒が作られていたようだ。

 

その昔、台湾で働いていた頃は紹興酒をたらふく飲まされたが、台湾人は紹興酒など好きだったのだろうか。それとも日本人は中華料理と言えば紹興酒、なので、飲ませたのだろうか。ここも921大地震で大きな被害が出たがいち早く復興させたらしい。建物の外へ出ると、そこには紹興酒と吟醸の大きな瓶の模型があり、その奥には廟があった。日本時代には神社があったのだろうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です