滋賀中心の関西茶旅2022(9)恭仁宮,そして善光寺

4月12日(火)恭仁宮へ

翌朝も善光寺捜しを続ける。検索して何とか見つかったもう一つの善光寺。ちょうど行きたいところがあったので帰りに寄ることにした。まずは京都駅から奈良線に乗る。これは宇治へ行く時いつも使う路線だ。木津駅で乗り換えて、加茂駅で降りる。思い出してみると昔和束の茶畑に向かった際、ここで降りてバスに乗ったのが懐かしい。

今日はここから歩いて恭仁山荘を目指す。古い街並みを抜けて木津川を渡ると、畑が見えてきて、極めて静かな田舎の風景に出会う。更に進んで少し登ると到着した。ここは旧内藤湖南邸(大学退官後隠棲した場所)だが、現在は関西大学の管理となっており、中を見ることはできない。門の前には記念碑が建っている。京都大学の教え子、貝塚茂樹、小川環樹(共に湯川秀樹の兄弟)などの名が見られる。これだけでも湖南がどんな人物かが少しわかる。

内藤湖南については、彼がジャーナリスト時代、植民地初期に台湾に1年ほど滞在したことに興味を持ったが、今や『志那論』など読むべき書を残した人物として認識している。現代中国を見る上で、その歴史を詳細に解析しており、その論には腑に落ちる点が多い。そんなこともあり、何となくここへ来て見たくなったわけだ。現在でもかなり静かなところだから、昔は相当な田舎であっただろう。湖南を訪ねて駅から歩いてくる人がこの山荘から見えたという。何となく『在家出家』という言葉を思い出される。

戻り路、きれいに整備された茶畑を発見する。よく見ると山の方も含め、周囲にいくらかある。さすが和束に近い。まっすぐ駅には行かず、国分寺跡に寄り道する。恭仁宮は聖武天皇が作った宮だが僅か4年で終わり、その跡地を利用して、山城国分寺が出来たとある。広い空間に支柱跡が点々と残る。その横に小学校があり、子供の声が聞こえるのは何となく幻想的な光景だった。学校の裏にも太極殿跡などがあり、かなりの規模であったと思われる。この付近は古代史の宝庫だろうが、その知識がないと何も分からない。

帰りに桃山駅で降りて、懸案の善光寺に向かう。お寺に声がけするとわざわざご住職が自らお墓に案内してくれた。『佐藤百太郎の墓』は大きくて目立つ。千葉の佐倉順天堂に生まれながら、ニューヨークへ渡り、貿易商社を興し、日本で初めて日本人の手による、アメリカ向け日本茶(狭山茶、佐倉茶)輸出を成した人物だ。明治初期の茶業史でもっと扱われてよいと思うのだが、今やだれも知らない。だが最終的に結果が伴わず、失意の帰国となり、理由は解明されていないが、京都に住み、そこで最期を迎え、ここに葬られている。周囲には佐藤家の墓がいくつか見られ、百太郎の子孫が今も墓を見ているという。

京都駅まで戻り、宿で荷物を引き取り、バスで四条へ行き、今晩の宿を探して荷物を預けて、またバスに乗る。午後は久しぶりにIさんを訪ねることになっていた。Iさんは体調を崩し、入院していたが、最近退院したので、金閣寺近くまで顔を見に行った。まだ万全ではないと言いながらお茶を淹れてくれ、久しぶりに楽しく会話した。夕方四条に用事があるというのでIさんと共にバスで出掛け、デパートへ行き、夕飯もその辺で食べた。長期入院すると色々と用事がたまっているという。やはり健康は大切だ。

4月13日(水)京都街歩き

宿の朝ご飯が立派でうれしい。この宿、実はお寺とくっついており、お寺見学などコラボ企画もあるという。そして何と朝飯時に『目覚めの煎茶』なるものが出される。ただ出てきたお茶が掛川茶でビックリ。全国の煎茶を紹介するというオーナーの発想らしいが、京都で掛川茶は何とも珍しい。

今日もフラフラ街歩き。鴨川に出ると、東華菜館という立派な建物が見える。中華料理だが、建築はあのヴォーリズだと聞く。スパニッシュ・バロック、ヴォーリズ唯一のレストラン建築とある。1926年建造。ここで一度料理を食べてみたいが、一人では無理かなと、先へ進む。

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