滋賀中心の関西茶旅2022(8)敦賀、そして京都

4月11日(月)敦賀の町

昨日は敦賀を歩かなかったので、まずは気比神宮に向かう。実はこの街、商店街は銀河鉄道999で詰め尽くされている。松本零士の出身地かなと思ったが、何だか違うようだ。その商店街を抜けると気比神宮があった。大鳥居の写真を撮ろうと思ったら、修学旅行の一団がその場所を占拠している。尚この大鳥居、明治に国宝に指定されたが、現在は重要文化財とある。格下げってあるんだね?

仕方がないのでその横をすり抜けて、神社内へ。神社はさすがに貫禄があるが、なぜかここにも芭蕉の像があり、句碑もある。そこから少し歩くと永賞寺という寺があり、そこに大谷刑部の供養塔があった。あの関ヶ原で散った西軍の猛者もこの地の出身だった。更に金ヶ崎城跡を目指して歩いて行く。

敦賀と言えば真っ先に思い出すのは、織田信長が袋のネズミになった、あの金ヶ崎撤退戦だろう。だが掲示板を見ると、何と南北朝時代、後醍醐天皇の御子と新田義貞の長男がここで戦死しているとある。金ヶ崎には意外な歴史があるようだ。まずは階段を上り、金崎宮へ詣でる。

そこから更に上っていくときれいに咲くさくらの下に、尊良親王御墓所見込地と金ヶ崎城跡の表示が見える。尊良親王は実際にはここに埋葬されることはなかったようで、この名称になっているのだろう。新田の軍勢300人余りと共に自刃したらしい。そして退き口の説明書きも見える。こちらは多くの時代劇で扱われているので、知っている人も多いと思われるが、殿を引き受けた秀吉が活躍する話となっている。

更にきつい登りを上がると、頂上には金ヶ崎古戦場とあり、そこからの日本海の眺めはかなり素晴らしい。帰りは別の山道から降りていくこともできた。下まで降りて歩くと、レンガ倉庫が見えてくる。その先には旧敦賀駅舎が資料館として建っている。敦賀は大陸との重要な接点であり、杉原千畝が助けたユダヤ人難民もここに上陸した。

中の展示を見ていると、新橋‐金ヶ崎は戦前週3本走っており、そのまま敦賀港発ウラジオストク行定期航路に連絡していたとは全く知らなかった。そもそも敦賀港はウラジオストクでシベリア鉄道の建設が始まったことで開かれたらしい。この時代にはこんなダイナミックな発想があったんだ。敦賀港を開いたのは、大和田荘七という人だという。市役所前にも立派な像が建っている。

港の近くには今でも木造の旧家がいくつも残っていた。敦賀城の跡を探すと真願寺という寺になっており、そこにも大谷吉継の名が出て来る。またこの付近にも芭蕉逗留の宿跡がある。芭蕉は旅の記録を残しているから、300年以上前の人間とは思えないほど、顔を出してくるのが面白い。

最後に本勝寺へ行くと『水戸烈士幽居之寺』の石碑があった。1864年武田耕雲斎が率いる水戸天狗党は、尊王攘夷を唱えて挙兵したが、最終的にここ敦賀で捕縛され、300名以上が処刑されるという悲惨な末路を辿った。処刑場所とお墓は別のところにあるようだが、そこまで行く時間はなかった。

京都へ

宿で荷物を引き取り、京都行の電車に乗る。来る時は湖西を走り、今回は湖東を走っている。先日訪ねた比叡山や坂本を通り過ぎ、1時間半で京都駅に着いた。敦賀と京都は歴史的にも近い。京都駅前の宿に荷物を置くと、すぐに本日の行動を開始する。Googleで善光寺という寺を探すと京都から一駅だと分かり、さっき降りたホームからまた乗る。

一駅で降りて歩き、善光寺に到着したが、そこは実に小さなお寺で、墓石がいくつか見えるが墓所はない。おまけに人は誰もおらずに尋ねることもできない。私は『佐藤百太郎の墓』を探しあぐねてしまったが、如何ともしがたい。仕方なくまた電車に乗り、京都駅へ戻る。

ちょっと急いだのには訳がある。駅の裏側にある店でうどんを食べたかったのだが、何と午後5時に閉まるとある。もう4時過ぎていたので、慌ててその店に辿り着くと、まだ暖簾が出ていて助かった。中に入ると、この時間でも結構客がおり、お稲荷さんなどは売り切れていた。

迷わずに『名物きつねうどん』を注文。お揚げとネギがたっぷり入り、生姜の効いたあんかけ汁が異常に美味しい。600円は満足できる値段。隣の客は横浜から食べに来たと言っていた。店のおばさんたちも笑顔で何とも愛想がいい。もうちょっと遅くまでやっていてくれれば、今後もチャンスがあるだろうが。

今日の宿は函館で泊って気に入っていたところだが、京都駅前は部屋も大浴場も狭いし、朝食もビュッフェはなく、簡単な定食でちょっとガッカリ。道理で駅前なのに安いわけだと理解したが後の祭り。まあ荷物を置くにはとても便利な場所ということで。

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