滋賀中心の関西茶旅2022(5)三井寺、梵釈寺跡、日吉茶園

突然の訪問だったので、簡単な質問をしただけですぐに大津に向かった。ここから琵琶湖は思った以上に近い。今日は取り敢えず三井寺へ行くことにしたが、途中瀬田の唐橋などを通り過ぎ、何だか歴史的な場所が多そうだと予感する。園城寺とも呼ばれた三井寺は意外と広いが、既に午後4時近くで、5時には閉まるというので慌てる。

私の目的地は石碑だったが、境内のサクラがあまりにも美しく、しばしば見とれてしまい、時間をロスした。三井寺には1300本の桜の木があるという。今晩はNHKがここからのサクラを生中継すべく、入念な打ち合わせが行われていた。何と我々は最高の日に、不死鳥の寺、三井寺に来てしまったのだ。

観音堂を探すとかなりの上り階段だった。その更に上に、石碑がいくつかあった。一番初めに目に付いた石碑の裏に回ると多田元吉他、明治初期に紅茶で貢献した人々の名がずらっと並んでおり、これが三谷重孝の石碑だと分かった。三谷は滋賀の紅茶製造に大いに貢献した人物であることが石碑から読み取れるが、残念ながらその後歴史から消えてしまい、今は知る人もほとんどいない。

観音堂から下を見ると見事な風景が広がっている。それから急いで境内を一周する。三重塔をはじめ、見るべき建物も沢山あったが、陽がどんどん傾いていき、終了が告げられていく。やむなく門を出て帰路につく。今晩の宿は寺からほど近い場所、Uさんに送ってもらい、チェックイン。因みにUさんは夜ライトアップされた三井寺をもう一度見に行ったらしい。

このチェーンホテルには大浴場があって、ドリンクバーもあるので、いくつかの都市で宿泊済だったが、何とこの街の宿は、大浴場もドリンクバーもなかった。場所によってサービスが違うなんてどういうこと。チェーンホテルの良いところはサービスが均一的なところではなかったの?と言ってみても仕方がない。あとで見たら先ほど三井寺の中継に携わっていたNHKクルーの宿泊場所にもなっていた。

何だかなあ、と思っていると腹が減るのだ。大津駅の方へ少し登って行ったが、駅前も繁華街という雰囲気はない。ちょうどあった蕎麦屋で夕飯を掻き込む。駅前には商店街があったが、何となくシャッター通りという雰囲気だ。帰りにちょっと散歩すると、ニコライ皇太子遭難の碑を発見した。1891年大津事件はここで起こった。首謀者の巡査は死んだはずの西郷がロシアで生きていて、ニコライと一緒に戻ってくると思っていた、との話は興味深い。

4月8日(金)永忠と最澄

朝NHKを見ると、三井寺のサクラをキレイに映していた。その技術はさすがだが、やはりこの目で見る方がさらに良い。Uさんが朝迎えに来てくれた。比叡山方面へ向かう。まずは崇福寺跡へ行く。琵琶湖からかなり上った山の中にその遺構はある。その先は土砂災害で通行止めになっていたが、京都の方に通じているらしい。

崇福寺というか、その近くにあったとされる梵釈寺。平安初期唐から戻った永忠が両寺を兼務し、唐崎に行幸した嵯峨天皇は京都から山越えでここまでやってきたのだろう。なぜ梵釈寺で茶を、という疑問は何となく解けた。ただ現在は豪雨被害で細い道は通行禁止。平安時代は安全だったのだろうか。

湖まで下りて行く途中、茶樹の垣根があるのを発見した。そこには「日本茶の栽培発祥の地」として、永忠に関する説明書きがあった。やはり最澄や空海も重要だが永忠も唐に30年滞在した僧だから、もっと理解して顕彰すべきだろう。その先を曲がると古墳のある寺があった。ここのサクラもきれいだったが、湖を一望できるのもまた素晴らしかった。嵯峨天皇もこの風景を見ながら茶を飲んだのかもしれない。

日吉神社へ行く。駐車場の前で栗を売るおばさんが呼びこんでいる。駐車場代は無料だが、帰りに栗を買う必要がある。湖の方へ下っていくと、駅のまん前に日吉茶園がある。小さな茶園で、看板は出ているが、これが日本最古の茶園、と言われると違和感はある。実際には最澄が持ち帰った茶の種をまいた場所、という意味合いだろうが、その最澄が持ち帰ったという史実も怪しいらしい。女性が一人、黙々と草取りをしていた。

茶園のはす向かいに生源寺がある。ここは最澄生誕の地。説明書きを見ると何と最澄は渡来人の子らしい。当時は実はそれほど珍しいわけではなかったかもしれない。新しい雰囲気の境内では花まつりの準備が進んでいる。花まつりと言えば子供の頃は苦手な甘酒を飲む日と記憶しているが、こちらはどうだろうか。その後桜の咲く道を戻り、日吉神社を少し見学する。入学式後の親子が写真を撮っている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です