京都、滋賀、兵庫茶旅2021(2)彦根の井伊直弼と日野の蒲生氏郷

彦根
そしてまた新快速に乗る。僅か14分で彦根に着いた。また駅に併設されている観光案内所に入る。日本はある程度の規模の駅なら、どこへ行っても観光案内所があり、何ともありがたい。尋ねたのは『井伊直弼とお茶に関して分かる所はどこ』であった。

駅前の像、井伊直政公、彦根藩初代、あの徳川四天王、井伊の赤備え、女城主直虎にも登場したな。ただよく見てみると、1602年彦根城築城途中に佐和山城で死去(42歳)、彦根藩になるのは彼の死後だった。それから200数十年、井伊家の所領は変わらず、そして幕末あの井伊直弼の代となる。

とにかく彦根城に向かう。その堀の前を曲がると、そこに埋木舎があった。ここは直弼が部屋住み時代に15年間暮らした場所だった。中を参観すると、大河ドラマ第1回直弼が主人公の『花の生涯』などの展示がある。今年の大河『青天を衝け』の岸谷五朗とは全然違う。ただ今回の大河で直弼が大老になった要因の一つとして、家定に茶菓子を献上した様子があったのは特筆される。

舎内は落ち着いた雰囲気があり、彼が詠んだ句も示されている。お茶室などもあって、やはり直弼と茶は大いに関連がある茶人だと感じる。座禅の間もあり、善と茶の関連も垣間見られる。部屋住みの暗い人生、と思われがちだが、意外と楽しんでいた可能性もある。

彦根城にも入ってみようかと思い、堀を渡ると、そこに宝物館があった。ここで直弼の茶道具などが見られるのではないかと期待したが、何と明日からの特別展のため模様替えで、入れてもらえなかった。明日は何が見られるのかと聞いても答えがなく、驚いて城も見ずに引き上げることとなった。

堀の周りを回り、楽々園へ行く。ここが直弼生誕の地だという。こちらは幸運にもたまたま一般公開(しかも無料)されており、その屋敷と庭を眺める機会を得た。しかし14男として生まれた男が藩主になり、しかも幕府の中枢に行く、というのは、余程の命運を持った人だったということだ。庭がなんとも美しい。この屋敷の近くには井伊直弼の立派な像も建っており、彦根はやはり井伊直弼中心かと思わせた。

図書館へ行き、井伊直弼関連、特に茶についての資料を漁った。職員も親切に対応してくれ、コピーも沢山出来た。まだ少し時間があったので街を歩くと、かなり古い建物なども一部に残されており、彦根がいい街であると知った。帰りに駅前で『ひこね丼』という幟を見たので、思わず食べてみた。近江牛のすじ肉を使った牛丼であろうか。最近こういうご当地グルメが多い。それからJRで近江八幡に戻り、夜は宿で休息する。

10月23日(土)日野

朝ご飯は宿で食べたが、ここの朝食は非常に簡易。最近立派な朝食ばかり食べてきたので、少し物足りない。ここはチェーンホテルだが、その中で格が一段落ちるステータスだった。名前だけで宿を選んではいけない。

今日は蒲生氏郷を追って日野へ行ってみる。とにかくバスに乗るしかないので近江八幡駅から出発。今日も何とも天気が良い。途中鉄道の日野駅もあったが、目的地まではここからでもバスに乗らないと相当遠いことが分かる。約50分かかって、何とかバスを降りた。日野川ダム入り口、というバス停からして、人家など無さそうだったが、意外や家が結構ある。

蒲生氏郷はここ、旧中野城で生まれた。石碑が建っており、近所に産湯を浸かったという井戸も残されている。日野川沿いには氏郷と冬姫の略歴の看板があった。ここではやはり冬姫も注目されている。城跡はちょっとした森になっており、小高い神社に登ると、昼間でも神秘的な感じがする。

バス通りに戻り、更に歩いていくと古い家屋が見られる。この付近は往時日野商人の屋敷が多くあったのだろうか。その1軒が公開されていたので見学する。日野商人は本宅を日野に置くが、商売する場所は日本各地に渡っており、基本的に本宅にいるのは奥さんだというのを初めて知る。北関東などにもかなり進出しているのは意外だった。ここ山中正吉邸の主は、静岡の富士宮で酒造業をしていたという。その内部には立派な部屋がいくつもあり、庭も美しく、往時の財力が窺われる。更には非常におしゃれな洋室があったりして、実に多彩だ。

この辺の道を歩いていると、ちょっと時代感覚がなくなる。更に行くと、日野商人館があり、先ほどと同じ山中姓の商人の更に広大な屋敷を見ることもできる。ここでは日野商人のネットワークや商法などを知ることもできたが、今後何かの機会にきちんと調べてみたい対象だった。近江商人と一括りにするのは少し違うのかもしれない。

途中の信楽院という寺は、蒲生家の菩提寺で、氏郷の遺髪供養塔もあった。更には雲雀野公園に、蒲生氏郷像を見ることができた。やはりここは蒲生発祥の地であり、当然ながら氏郷はその中心人物と位置付けられている。氏郷は武勇に優れただけの戦国大名でもなければ、ただの茶人大名でもなさそうだ。彼が持つ商人的な発想はきっとこの地で磨かれたものであろうし、それが秀吉を恐れさせたとすれば恐るべし、である。

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