中国地方西部茶旅2020(2)萩で幕末史を堪能する

街を歩くと、高杉晋作生誕地や木戸孝允旧宅などが、ぞろぞろ出てくる。そこをちょっと見学するのに、いちいち100円程度の入場料を取られるのは非常に煩わしい。萩城下は世界遺産にも登録されているというのだから、もっとまとめてもらいたいと思ったら、最後の方で共通券があるのが分かったが、もう遅かった。

城下町から少し郊外に出ようと歩いていると、途中で藩校明倫館を外から見た。非常に立派な木造の建物があり、しかもその後にも数棟が続いている。これは思ったよりはるかに広い。水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と共に日本三大学府の一つに数えられていた明倫館。吉田松陰を筆頭に、井上馨、桂小五郎、高杉晋作、長井雅楽、乃木希典など、さすがに多彩な人材が学んでいた。

隅の方に、最近長州ファイブの説明があった。幕末英国密留学を果たしたのは井上の他、伊藤博文、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士だった。知り合いの香港人がロンドン大学卒業生で、彼から以前その名前を聞いて興味は持っていた。井上馨は外交、遠藤は造幣、山尾は工学、伊藤は内閣、井上勝は鉄道の、それぞれ「父」と呼ばれ、明治日本の原動力になっていた。だが明倫館に通えたのは井上だけだったことは、明治維新とは何かを考えさせられる。

松本川を渡り、松陰神社を目指した。萩といえばやはりここに来なければならない。坂本龍馬にゆかりの薩長土連合密議之處などの碑もあり、ムードは盛り上がる。1862年竜馬は武市半平太の手紙を持参して萩に入り、久坂玄瑞らと会合を持った。これが後の薩長同盟に繋がるとの説もあり、久坂の影響で竜馬は土佐を脱藩したらしい。

そして神社に踏み込むと、かなり広い敷地を持ち、松下村塾の建物が復元されている。こんな小さな建物の中に連日若者が溢れかえって、激論を交わしていたのだろうか。松陰が押し込められていた旧宅も保存されている。ボランティアの人が観光アンケートを行っており、珍しく付き合って答えたら、水を貰った。

そこから少し行くと、伊藤博文の像やその別邸が開放されていた。更に吉田松陰生誕の地や松下村塾発祥の地がある。実は吉田稔麿生誕の地の碑も小さく見えたが、この稔麿という人物もちょっと注目されてきている。松陰の叔父で教育者の玉木文之進の家も残されていた。そして東光寺という立派な寺まで来た。ここは黄檗宗だ。

そこから坂を上っていくと、松陰、玉木文之進など吉田家、久坂玄瑞や高杉晋作、その他、幕末の歴史で名前が出てくる人々の墓が沢山ある場所に出くわした。これは歴史好きにはたまらない場所かもしれない。そして小高い丘から、眼下に街が見えた。そして松陰の像があり、この付近が本来松陰の生まれた家の跡だと書かれていた。

一体何キロ歩いたのだろうか。さすがに疲れて足が動かなくなった。おまけに雨が落ちてきそうな天気となり、周遊バスを利用することにした。これは30分に一本程度しかないが、大体どこへでも行けるのでとても便利。しかも料金は100円だ。萩駅なども通ったが、その先の海が見える場所でバスを降りてまた歩き出した。小さな港は静か。藩の船倉があり、古い町並みが見え、雰囲気が良い。

かなり歩くと、野山獄跡までたどり着いた。ここは松陰が海外渡航失敗後に投獄された場所で、ここでも受刑者などに教育を施したとあるが、今は記念碑が建っているだけである。午後4時過ぎまで歩き回ってしまい、しかもご飯はモーニングうどんしか食べていなかった。こんな時間にやっている食堂もないだろうと、宿に戻りかけると、何と今朝のモーニングうどんの店が目に前に現れた。これはもう食べるしかないと、かつ丼セットを注文。腹ペコなので腹一杯詰め込んで満足した。

ようやく宿に行き、チェックインを済ませた。ここは大型ホテルであり、大浴場もあるというので、疲れた体を癒すためにさっそく浸かりに行く。さすがにこの時間は誰もいなくて、ゆったりできる。露天風呂もあり、快適だ。さっぱりすると、のどが渇くが、飲み物も無料コーナーがあり、充実している。部屋も広めだ。これで朝食付き、料金は5000円程度だったので、当たりホテルだろう。週末は近隣から泊り客が来るようで、意外と混んでいた。このまま夕飯を食べに出ることもなく、ボーっと休息に充てた。

なおこのホテルは、B&B式バジェットホテルという表現を使っており、フロント業務も午後の一定時間だけで、あとはなんでもセルフサービスになっている。料金を抑えるという意味と、コロナ対策という両面から、なかなか良いアイデアだと思われたが、どうだろう。

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