九州北部茶旅2020(5)シーボルト、そして出島

部屋で少し休息したが、腹だけは減ったので、まだ明るい外へ出た。すぐ近くにトルコライスを出す店があったので、食べてみる。長崎では豚カツ、ピラフ、スパゲティが一つの皿にのっている料理をトルコライスと呼ぶが、なぜトルコなのかは全く不明であるといってよい。

少なくとも豚肉を入れるだけでイスラム圏のトルコとは無関係だとわかるはずだ。三色旗などに出てくるトリコロールから名がついたという説もある。トリコがトルコになったらしいがどうだろう。まあ名前はどうでも美味しければよいか。当然ながらかなりのボリュームがあるが、今回は空腹で完食。因みにこの店には、ハンバーグ、オムライス、焼き肉などのトルコライスもあり、正直ただの洋食かとも思ってしまう。

7月14日(火)シーボルトと出島

翌朝は雨模様だったが、もう散歩の勢いは止まらない。今日は朝から路面電車に乗って、鳴滝塾を目指した。長崎は路面電車網が張り巡らされており、意外に便利だ。20分ほど乗って、蛍茶屋まで行き、そこから歩く。途中でついに小雨が降りだした。この旅で初めての雨だった。

シーボルトの鳴滝塾は出島からこんなに離れた郊外にあったのか、と来て見て思う。鳴滝塾のあった場所は、今建物はなく、空き地のようになっており、その中にシーボルトの像だけが建っている。よく見ると立派な木も植わっており、『シーボルトノキ』と書かれている。シーボルトはこの庭に日本各地で採取した薬草類を栽培していた。同時に高野長英、二宮敬作(シーボルトの娘イネを養育)、伊藤玄朴など、幕末に活躍する蘭学医も育てていた。更には診療所も開設し、実際に治療も行っていた。尚隣にはシーボルト博物館が建てられており、彼と塾の歴史はそちらで見ることができる。

シーボルトは植物学も学んでおり、当然お茶にも興味を持っていた。当時茶樹は貴重なものであり『シーボルトがオランダ東インド会社の要請によりジャワに日本の茶苗(種)を送った』と言われている。嬉野と宇治のものを送り、その栽培に成功したらしい。だがその後天候不順と病虫の被害に遭い、茶事業は頓挫。19世紀終わりのジャワ茶はアッサム種を取り入れて、紅茶作りが始まり、今に至っているようだ。

シーボルトは有名なシーボルト事件で国外に追放されるが、故国で日本について詳細な情報を出版し、それは1850年代日本を開国させようとする欧米諸国で珍重されたらしい。本人も再度長崎を訪れ、イネとお滝にも再会している。彼は業務上日本地図を入手するなど日本情報を集めていたが、ある意味で本当に日本を愛していたように思われる。

雨が止まなかったので、一度宿に帰るべく、また路面電車に乗る。そして大波止に着いた頃、なぜか雨は上がった。まだ前に進め、と言われているような気分になる。そしてすぐ横には出島がある。シーボルトも元はここに住んでいた。今の出島はきれいに改装されているようだが、何か見つかるかもしれない。

橋を渡って入場料を払って中に入る。ある意味完全な観光地で期待薄となる。右手の方は蔵や建物が並んでおり、往時の居住の様子が少しわかる。しかしシーボルトやケンペルがどこに滞在していたかなどの表示は全くないので、案内所へ行き、聞いてみた。係員が学芸員に電話で聞いてくれたが、判然としないとの答えだった。

様々な展示品のコーナーもあった。目を惹いたのは陶磁器。絵柄に東インド会社のマークであるVOCと入っている。同社が肥前に注文して、皿などを作らせ、ヨーロッパに輸出していた様子が見られる。しかしこの狭い長屋のようなところに押し込められたオランダ人たちは、さぞや苦痛だっただろう。

反対側に歩いていきと、石碑が見える。バドミントン伝来とあるから、日本で最初にバドミントンが行われたのは出島なのだろう。その近くには重厚な石碑がある。これは商館医だったケンペル、ツュンベリーを記念してシーボルトが建てたものだとある。この3人が出島の三学者と呼ばれ、日本を世界に紹介することに大きな功績があったという。ケンペルにはやはり茶に関する研究もあり、興味深い。当時の植物学者が、貴重な茶の知識を得たいと考えたのは当然のことだろう。

また出島内には、出島の全景を再現したミニ出島もある。そしてなぜか旧内外クラブの建物がある。これは1899年にグラバーの息子倉場富三郎等の発起によって長崎在留外国人と日本人の社交の場として設立された「長崎内外倶楽部」があった建物だった。現在の建物は1903年にあのフレデリック・リンガーによって建てられた英国式明治洋風建築だというから、こちらも興味深い。

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