九州北部茶旅2020(6)オランダおいね

出島を出て、港の方向、出島ワーフに向かう。その途中で腹が減り昼食を取る。小さな店だがちゃんぽんの名店と言われたので入ってみると、入り口もよくわからず、裏口から入ってしまった。2階もあるようだが、1階は数席しかない小さなお店。桃華園のメニューにはちゃんぽんと皿うどんしかなかった。パリパリの細麺の上にあんかけがどさっと載っており、その大盛感がいい。

そこからふらふら歩きだし、長崎駅の近くの本蓮寺を訪ねる。一昨日は禅寺4つを回ったわけだが、今日のお寺は日蓮宗。訪ねた理由は歴史的な場所だから。元々この地は、1591年に来日したポルトガル船の船長ロケ・デ・メロ・ペレイラの寄附によってハンセン病患者のため聖ラザロ病院が建てられたことに始まる。そして聖ジョアンバウチスタ教会も併設されたということ。その後江戸初期に寺に変わっているのはキリシタン禁令のためだろう。

幕末には長崎海軍伝習所で伝習生頭役を務めた勝海舟が住んでいたというのも面白い。更にはシーボルトが1859年二度目に来日した際には本蓮寺に泊まり、お瀧、イネに再会した場所とも言われている。シーボルトと勝海舟はすれ違いだったらしい。本蓮寺は現在も立派な本堂があるが、当時は相当広い敷地を持っていたのだろう。

それから昨日のリベンジを思いつく。路面電車で長崎市歴史民俗資料館へ。今日は開いていたが、ここはまさに民俗資料館だった。庶民が使っていたやかんなどはあったが、茶の歴史(特に貿易)に通じるものは発見できず。弁当を食べていた係員の人に聞いてみたが、今日は学芸員もいないので、何も分からないと言われてしまった。

折角なのでもう一か所リベンジすることに。そこは長崎歴史博物館の斜め向かいにあったサンドミンゴ教会跡資料館。ここは教会跡であると同時に江戸初期博多出身の豪商末次平蔵の屋敷跡ということで、茶貿易に関するものが何かあるのではとの期待から入ってみた。しかしここは本当に教会跡地を発掘した場所が保存されており、残念ながら私が思うような資料を発掘することはできなかった。

今日は私が長崎で活動する最終日、結局雨も降らなかったので、心残りがないようにと、更に歩いていく。今度はシーボルトの娘イネの墓を訪ねてみる。晧臺寺という寺にあるというのでそこへ行ったが、その横の細い階段を相当上らないと見つからなかった。喘ぎながらようやくたどり着くと、そこにあったのは顕彰碑。楠本イネ、瀧、二宮敬作の名が刻まれている。その少し上にこの3人の墓がある。ここからは長崎の街が見下ろせる。

実は楠本イネについて、私は9歳の時に見た『オランダおいね』というTBSの連続ドラマを何となく覚えている。イネがミックスである困難を乗り越えながら、女医になる話だったが、主演の丘みつ子という女優さんが何となく忘れられない。江戸時代、父親が外国人というのは、想像を絶するほど大変な一生だったのではないだろうか。だからこそイネは人々のために尽くしたと書かれている。

因みに晧臺寺は1608年の創建。この寺は遠藤周作の『沈黙』という小説の舞台としても知られているらしい。この時期はキリスト教勢力が強く、キリスト教徒から攻撃されることもあり、信者獲得にも難儀したという。そのすぐ後にキリシタン禁令となり、仏教寺院は盛り返したらしい。この寺にも非常に多くの墓があり、中にはキリシタンの墓まであった。

中でも目を惹いたのはかなり大きな村山等安一家の墓。村山等安といえば、先ほど訪ねた豪商末次平蔵の屋敷跡の末次にキリシタンであることを密告されて、一家が処刑された人物だった。墓の前の碑には『初代長崎代官であったが、信仰を守り抜いた』と書かれており、この時代の難しさを象徴している。

一旦宿に戻ろうと歩いていると、上野彦馬生誕の地という看板もあった。彦馬といえば、長崎生まれ、日本初期のプロ写真師。あの坂本龍馬の写真を撮った男とも言われていたが、それは弟子が撮ったらしい?写真がなかった時代、シーボルトなどはわざわざオランダ人絵師を呼んで、植物だけでなく、なんでも描かせていたという。日本の絵師川原慶賀もシーボルトの目となって活躍していたと今回の長崎訪問で初めて知った。

宿の近くには長崎海軍伝習所跡などの看板があり、榎本武揚などが紹介されていた。勝海舟と榎本、幕末の行動はなぜあんなに違ったのだろうか。フラフラと出島ワーフも歩いてみたが、6年前は沢山いた観光客の姿はほぼなく、店も多くが閉まっていて何とも寂しい港風景だった。今日はもう腹も一杯なので、夕飯を抜こうと考えたが、また街中を歩き、まだ食べていなかった角煮まんじゅうと包子を買って、歩きながら食べた。そして今回の私の長崎旅は終わった。

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