《雲南お茶散歩 2006》易武・孟海(1)

2月13日(月)4.易武
(1)バスターミナル
結局よく寝られないまま、5時半には起き上がる。そうなるともう出掛けるべきである。真っ暗なロビーでフロントの女性を起こして、チェックアウトをお願いする。あまりに早いので『どこに行くの?』と聞かれる。易武というとポカンとしている。眠いせいもあろうが、そんな所へ行く外国人がいるのかといった反応であっただろう。バスターミナルを確認すると翻胎廠という。変な名前だが、昨夜の男性従業員が書いてくれた場所と同じであったので納得する。

 

ホテル前の道に出るが流石に車も走っていない。タクシー以外に行く方法がないのでどうしようかと思っていると1台やって来た。ターミナルの名前を告げると直ぐに出発。誰もいない道を5分で到着。

ターミナル前は人がかなりいた。バスも何台か見える。よかった、これで行ける。と思ったが、切符売り場で女性に『易武行きは12時20分』と言われて唖然とする。今は朝の6時、バスが出るのは6時間後である。ホテルもチェックアウトしてしまった。どうするんだ??

ここは中国である。何が起こるか分からない。昨夜F夫人はもう一つターミナルがあることを告げていた。南駅。電話番号も貰っていた。さすが中国人には備えがある。不案内な場所では細心の注意を払う。南駅に電話すると女性が出て6時半にバスが出ると言う。

時計を見ると6時10分、直ぐに停まっているタクシーを捕まえて急ぐ。また5分で到着。タクシー代も常に5元で交渉する必要がないのがよい。あー間に合った。しかし切符売り場には人が何人もいた。時間がない。横にいた女性に『易武行きバスはあるか?』と聞くとPCで検索してくれ、あるから心配するなと言ってくれる。

ところがようやく順番が回って来た時、別の女性が切符を切ろうとしていきなり『このバスは易武には行かない』と言い出す。これまで色々と耐えてきた私は『なんでだ!』と怒鳴ってしまう。周りの人々がどうした、どうしたと女性に聞いている。そして私に向かい『このバスは易武の近くには行くが、街道沿いに下ろしていく。外国人がそこから易武へ行くことは出来ないだろう。』と説明する。

別の人間は易武から10km離れている、別のある人は5kmだという。頭に来ていた私は『何でもいいから切符を売れ!バスに乗る。』と叫ぶ。その時切符売り場の彼女がポツリと『バスは出ちゃった』。私は完全に切れてしまった。朝5時半に起きて、別のバスターミナルに行き、そしてやっとここに辿りつたのだ。それなのに・・??久しぶりに中国人はいい加減だと思ってしまう。

兎に角途方にくれる。これからどうすればいいんだ。切符売り場の女性は『ごめんなさい。11時には直通バスが出るからそれに乗って。』と言う。謝ってくれたのは、昔の中国と違うなと感じた。仕方がないので引き下がる。頼みの綱は昆明のF夫人だ。携帯に電話したが、電源がオフになっている。確かに朝早くに携帯を使っている人は少ないかもしれない。これで万事休す。さてどうするか??

しかしターミナルを離れる気分でもない。ボーっと立っていると何故か英語で『英語できるか?』聞いてくるヤツがいる。見ると大きなバックを背負った西洋人が立っていた。彼は昨夜昆明からバスに乗り今着いたと言う。人民元がないので中国銀行のATMでお金を下ろしたいという。何で外国人がと思うが、恐らく提携している国際クレジットカードを使うのだろう。彼が捕まえていたタクシーの運転手に彼の意図を伝えてあげた。

そして本当に私はどうしようかと思い、念のためその辺に居たタクシー運転手に易武までの値段を聞く。800-1000元、そう言われてはとても乗れない。しかも1泊2日で行くにはその倍は掛かる。ダメだ、ホテルに戻って不貞寝しよう。そう思っていると何とさっきの西洋人が目の前にいた。何だ??

彼は100元札をヒラヒラさせて、『運転手に換えてもらった』と嬉しそう。そして『景洪の町はいい所か?泊る価値はあるか??』と聞いてくる。お前はどこへ行きたいんだ、と聞くと『バックパッカーに聞いたんだ。布朗山、自然が素晴らしいらしい。』とのこと。周りに野次馬が集まっており、地図を広げると布朗山を指して教えてくれる。そこは雲南省南部、ミャンマーとの国境近くにあり、どうやっても簡単に行ける場所ではない。勿論自然は濃厚に残っているだろうが。

取り敢えず2人でホテルに戻ることにした。タクシーに乗り込むとさっきの運転手だ。彼は私に向かって『易武に行きたいだろう?400元で行くよ。俺はここの人間だから道もよく知っている。知り合いの茶農家もある。さっきお前が聞いたのは、東北出身者だよ。アイツ等には道が分からない。だから高い値段を言ったんだよ。』と誘って来た。これは渡りに船ではないか??おまけに日帰りできるから400元で済むと言う。急にこの車で行くことに決める。

正直言ってさっきのやり取りでどうみても易武が簡単な場所ではないことが分かってきた。バスで行っても果たして茶の木が見られるかどうか?そして本当に泊れるのかどうか??不安がかなりある。このタクシーで行けば不安が解消できる。

西洋人、その後聞いたところオーストリア人も誘ったが、彼は昆明からの夜行で疲れているといって断ってきた。きっとバックパッカーの彼にとってタクシーで観光するなどはポリシーに反するのであろう。私はバックパッカーではなく、目的があるのだから必要な時はお金を使う。当然違いが出て来る。

(2)易武へ
オーストリア人は兎に角寝たいようだ。100元ぐらいのホテルがいいと言うので運転手に聞くと彼はちょっと車を走らせて適当な所に泊める。朝7時過ぎだが、フロントは100元で泊めるという。オーストリア人とはここで別れた。

2人になると運転手は『あそこは武警の隣にあって、実は彼らが経営している。だから安全だと思って紹介した。』と舌を出す。なかなか気が利く。運転手羅さんとはこうして知り合った。何となく運命的な出会いである。

車は郊外に出た。と思うと直ぐに停まった。『朝ごはんを食べていこう。道のりは長いから。』と羅さんはさっさと麺を売る店に入って注文する。米線、昨日昆明でも食べたが、ここでは路上で食べる。あのベトナムでフォーを食べた時のように、風呂場にある小さなプラスチックの椅子に座る。麺には味付けがなく、テーブルの上に置かれた調味料を使って自分で味付けする。私が醤油を少し入れて食べようとすると羅さんがさらに油や砂糖、唐辛子などを入れて味を調えてくれた。この麺は美味かった。1杯1元ぐらいだったが、羅さんが払ってくれた。何だか不思議な気分である。さっきはターミナルで中国人を悪く思っていた。今はこんな良い中国人がいると感激している。

yunnan2006 137m

車は上海サンタナ。昨年23万元をはたいて買った中古だという。1ヶ月数千元の収入だという彼はどうやってこのお金を工面したのだろうか?子どもは1歳で昨年家も建てたと言う。どうなっているんだ??彼は29歳、将来が見えているのだろう。

yunnan2006 151m

 

しかしよく聞いて見ると彼は29歳で既に色々と経験している。15歳で兵役に着き、海南島の部隊にいた。4年で兵役を終えて故郷景洪に戻る。22歳までの3年間は兵隊で覚えた運転技術を使ってバスの運転手をした。その時担当したのが今走っている易武の路線だそうだ。

 

車は快適に川沿いを行く。瀾滄江、19年前この川を船で下り、ビルマとラオスの国境の方向に向かった。途中水浴びしている少女が恥ずかしそうに小走りする姿を見て桃源郷だと思ったのはこの川である。絵画のような風景が続いていた。殺伐とした上海から来た我々は目を奪われ、皆が絶賛した。船を下りて昼食を取った。粗末な小屋で食べた野菜が美味しかった。テーブルの下には家畜の豚がやってきて分けてくれという目をしていた。まさに自然の中で食事をした。

yunnan2006 141m

 

 その場所は恐らくは橄欖?という町ではなかろうか?今回通りかかると道沿いに大きな建物がある。タイ族の伝統的な建物の中で朝市と称して土産物を売っていた。羅さんは折角来たのだから見ていけばといった感じで車を停める。しかしその建物には興味はあったが、中身には興味はない。5分で出て来てしまった。

 

道にはかなり太い幹の椰子が川との間を仕切っている。根元近くは白く塗られており、夜事故が起きないように配慮がされている。しかし本当に夜真っ暗中、ここを通ったらどうなるだろうか?

風景を写真に収めたいので車を停めてくれと頼む。彼は果物を売っている小屋の所で停めた。私はどんな果物があるか見るために近寄った所、トイレはこっちだとおじさんに言われる。しかし行った先には本当に掘っ立て小屋があった。中は不潔でとても入れる雰囲気ではない。イヤーすごい。これが田舎のトイレだと思い出す。

 

またまた何も買わずに戻る。これで羅さんは私が本当にお茶を見に来た人間だと分かったようだ。その後はどこにも寄らず真っ直ぐ易武を目指す。道の脇の木々も幹が細くなり、その内にジャングルの様になっていく。それから2時間後、孟醒と言う町に着く。ここが分かれ道である。右に行けば孟?、左に行けば易武である。ここから先は土の道になると聞く。かなりの山道、アップダウンを覚悟する。

ところが道が出来ていた。昨年来道の舗装工事が行われていたらしい。かなり行った所では実際に舗装工事が行われていた。その場所でも既に半分は出来ていたので、問題はなかった。

30-40分走ると山の中に茶畑が見えてきた。ここが易武であろうか?そして道が分かれた。恐らく朝6時半バスはここで易武に行く客を降ろすのではないか??確かにこんな所で降ろされたら、どうしようもなかったかもしれない。切符売り場のネエチャンに感謝すべきかもしれない。

 yunnan2006 158m

道を下り、民家が見えて来た。茶畑もある。車が茶工場の前で停まる。ここが易武なのである。時間は10時半過ぎ。3時半ほどで到着したことになる。やはり道路の舗装は大きい。体力的にも楽であった。

(3)易武永聘茶廠
羅さんがバスの運転手をしていた時、酷い時は景洪―易武間を一日一往復していたそうだ。当時の道である。これは大変なことだ。その際に易武の町を知っていた。町外れ、と言っても殆ど建物の無い町の入り口にそのお茶工場はあった。

入り口には網が張ってあり、入る人は網を潜っていく。恐らくは泥棒に備えているのであろう。中に入ると庭に竹の台に載せられてずらっと餅茶が干してある。横には完成した餅茶が重ねられて竹皮で包まれていた。反対側には昨日摘んだ茶葉が干されている。

yunnan2006 176m

yunnan2006 182m

レンガで出来た小さな工場に入る。責任者はまだ若い男性である。突然昔馴染みが外国人を連れてきたのである。ちょっと困惑した様子であったが、案内はしてくれる。手前に干した茶葉が置かれ、その横でおばさんが茶葉を筒状の入れ物に詰める。その際にこの工場のことが書かれた紙も一緒に入れる。その横には蒸し器があり、筒を入れて蒸している。

蒸し終わると茶葉の塊を取り出し、手で丸める。丸まったものをお椀の形にする。そしてそのまま布の中に入れる。その布を床に置き、足元にある重石を載せる。その後重石の上に両足を乗せ、思い切り力を入れる。徐々に茶葉の形が平らになってくる。平らになったら布から取り出し、干す。干したものを紙で包む。7つ纏めて竹の皮で纏める。これで七子餅の出来上がりである。ここまでの工程が1泊2日である。

yunnan2006 185m

yunnan2006 192m

 

聞いてみると昔はもっと山の中で作っていたが、最近易武の茶葉を求める人が多く、大量生産の為にここに工場を建てたようだ。ここでもプーアール茶ブームに乗って起業している人々がいる。複雑な心境になる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です