マレーシア老舗茶荘探訪2019(6)KLの老舗茶荘

8月21日(水)
KLの老舗茶荘

翌朝、もう一度パサールスニに向かった。朝10時前だったが、広滙豊という昨日発見した店に乗り込んだ。古い六堡茶なども置かれており、確かに店内を見ても歴史が感じられる。確か6年前にもこの店に入り、マレーシア華人は六堡茶を飲むんだ、と再認識した記憶が蘇る。

 

店員に聞いてみると、やはり100年近い歴史はあり、KLで最も古い茶荘と言われているという。だがオーナーは来ていないので、詳しい話は分からない。そこで若旦那の電話番号を聞いて、掛けてみるも、歴史なら父親に聞くしかないが、現在国外にいるというので、日を改めて訪問することにした。

 

そちらは諦めたが、店員から広滙豊が現在の会長を務める茶商公会の冊子をもらい、現在のマレーシアの茶商リストを手にすることが出来た。これまで行ったペナンやイポーの茶商の名前も載っており、その役割と共に掲載されているので、これで大体の感じは掴めた。更にこの付近の老舗茶商を紹介してもらい、そこまで歩いて行って見た。

 

建源茶行は、チャイナタウンの端の方にあり、今まで気が付かなかった。入っていくと店主らしき人が、ヨーロッパ系の女性に英語でお茶を説明している。若い3代目許さんが私の相手をしてくれた。この店は戦後、1945年創業となっており、祖父が自転車で茶を売り始めたという。

 

1960年、中国茶を輸入するために茶商たちが設立した会社、岩渓茶行には、聯隆泰(貿易専門会社)という別会社で参加しているので、始めたよく分からなかった。福建茶などの卸を主に、現在も営業を続けている。彼らはとても親切で、茶の歴史にも興味があると言い、お茶を飲みながらいろいろな話をした。

 

そして彼は2つの老舗茶荘を紹介してくれた。1つは巴生(クラン)にあるというので後日行くことにした。もう一つはここから歩いて15分ぐらいだというので、そのまま行ってみた。チャイナタウンを過ぎて、インド系の匂いがしてくれる。元々マレーシアでは華人とインド系は貿易などを行う上で、港の近くのほぼ同じ場所に店を出していた。

 

高泉發、その店舗は暗くて、営業しているのかどうかさえ定かでなく、恐る恐る入っていく。ここは卸が中心だな、とわかる店の作り。往時は相当な茶業だっただろう。店員に話しかけると、中から70歳代の夫人が出てきた。彼女が3代目の奥さん黄さんで、残念ながらご主人は昨年87歳で亡くなっていた。

 

最初はあまり話に乗り気ではなかった彼女。私が高という苗字なら安渓大坪出身でしょう、と聞くと、日本人がなぜそんなことを知っているのか、と驚いた。そして私が大坪の張彩雲の歴史を調べたことを伝えると、『うちの主人とは同郷で、親戚の中には張家から船賃をもらってマレーシアに渡った者もいる』と急に親しげになり、その後は何でも話してくれた。因みに黄さんは安渓人ではなく広東の客家の出だという。この2人が結びついた経緯などにも興味があるが、それは説明してもらえなかった。

 

日本人も昔はよく店に来てお茶を買って行ったが、最近は来ないという。景気が悪いのかなというので、素直に頷く。マレーシアの茶業もすでに転換期を過ぎ、今後どれだけ続いて行くのかは分からないと言い切る。こういう老舗が続いてほしいとは願うものの、一方で消費者の好みの変化などを考えると致し方ないのかなとも思ってしまう。それでも4代目が既に店は継いでいるという。

 

茶荘を出ると腹が減る。午後1時を過ぎているのに、満員の店があったので覗き込むと店主が華語で話しかけてきたので吸い込まれた。またまたチキンライスを食べる。私は基本的に1日2食ならチキンライスだけ食べていれば十分だ。活気がある店で食べるとその味がまた良くなる。

 

この付近には大きなマスジットジャメ・モスクもある。かなり美しい外観で引き付けられた。1909年建造とあり、KLの中心的なモスクだ。地下鉄も通っていたので、チラッとモスクを見てから、と思ったが、手続きしている人を見ていて面倒になり、そのまま宿に戻る。そして宿の斜め向かいにあるコインランドリーで洗濯。

 

夜はたまたまKLに来ていたMさんと再会する。場所はまたチャイナタウン。何と2日で3回目だが、これもご縁というものだろう。中華レストランで観光客的な料理を食べながら、マレーシア事情などについて話す。Mさんは多言語を操り、旅好きで、非常に興味深い人物だ。初めて知ったのだが、彼は昔KLに3-4年住んでいたらしい。色々と詳しいわけだ。勉強になる。3時間以上話し込んで、夜遅くに地下鉄で帰った。

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