天津・大連・北京周遊茶旅2018(8)興工街、星海街へ

12月22日(土)
興工街、星海街へ

今朝はもう行くところもなくなったと思い、ゆっくり過ごす予定だった。だが寒さにも慣れてきたので、やはり外に出てしまう。大連駅前から待望の路面電車に乗るも、旧型の車両は来ない。仕方なく新型に乗る。思いの他混んでおり、まるでラッシュのようで驚く。地下鉄の認知度が低いのだろうか。取り敢えず終点の興工街まで乗っていく。1元。

 

興工街の北側に、かつての満鉄社員の社宅があると聞いていたので、探してみる。ちょうど次の駅との間辺りにその古い建物群は残っていた。一部は戸建ての立派なものだが、大半は団地のようなところだった。その古さのほどはよく分からなかったが、部屋の入口の戸が木造だったりすると、やはり日本時代かと思う。今でも人が住んでおり、寒い中、風など吹き込まないのかとちょっと心配になる。これらの建物は保存の対象になっている様子もなく、恐らくその内取り壊しになるのではないだろうか。正直これらの建物を全て保存するのは難しそうだ。

 

一つ北側の駅、中長街から地下鉄に乗る。今度は海の方へ行って見よう。会展中心という駅で降りて地上に上がっていくと、そこは高層ビルがいくつか建ち、歴史とは無縁のような、現代的な場所に見えた。だが道の反対側、星海街付近には上等な別荘風の家がいくつも立ち並んでいる。入って写真を撮りたいと思ったが、どうやら現在一部は軍関係の施設となっているようで断念する。ただこれを見ると、ここが日本時代の高級別荘地帯だと分かる。

 

その別荘の脇を抜けていくと、坂を下りる階段がある。昨日も甘井子で同じ印象を持ったが、この坂の様子はどこか韓国を想起させるものがある。どこがどうということはないのだが、既視感がある、というのだろうか。冬のソウルやプサンを歩いたのは3年前だっただろうか。人々の顔立ちや服装が似ているという点もあったかもしれない。

 

路面電車の駅から電車に乗ろうかと思い、ふと道の対面を見ると、『割烹清水』という文字と立派な構えの入り口が見えたので驚く。清水と言えば、私が上海留学中にどうしても行きたかった店。あの頃大連に来た理由は清水で刺身を食べるためだったと言ってもよい。今では考えられないことだが、1986年の上海にはまともな日本料理屋は一軒もなく、日本食を食べに、北京や広州、果てはシンガポールや香港にまで行く始末だった。

 

そんな時に誰かが、『大連の清水に行けば、新鮮な刺身がたらふく食えるぞ』と言ったから堪らない。すぐに飛行機の予約をしたのだが、何とこのフライトは3日間、上海から出発せずに断念(飛行機が墜落していたのでは、との情報あり)。それでも諦めきれずに、数か月後の東北一周旅の際、ついに大連に辿り着き、ここでランチを食べたのだ。その時の刺身定食の値段は確か20元。当時上海の一流ホテルの中華を4人で食べて10元ぐらいだったから、その高さが分かる。そして出てきた刺身は船盛。すべてをきれいに平らげた記憶が蘇る。

 

その清水が今目の前にあるのだ。それはここに入って食べろ、というメッセージ以外には思えない。偶然ではない。昨日の大名は予兆だったのか。店は昔とは違う場所になっている。今はビルの2階だ。入口は狭いが中は思いの他広い。土曜日のランチタイム、大勢の家族連れ、地元民で賑わっており、皆楽しそうに和食を食べている。恐らく日本人は私だけだろう。70元の弁当を注文する。もうこれで十分だ。何とも懐かしい、中国によくある日本食の定食だった。ここも既に日本人の経営ではないだろう。サービスは完全に中国化している。

 

帰りにまた路面電車に乗り、興工街へ向かう。出来れば本屋に行って、何か資料になりそうなものを探すためだった。検索すると新華書店があるという、そのショッピングモール、裏の方に書店街があったが、新華書店はわずかなスペースで出店しているだけだった。どの店も学生向けの受験用参考書ばかりが置かれており、一般書や専門書はほとんど見当たらない。これが今の中国の書店の現状だろう。きれいなショッピングモールを通り抜けて地下鉄でホテルへ帰る。

 

今晩は大連最後の夜だというのにどうも体に力が入らない。それほど寒くはない、などと思ってはいたが、やはり体にはこの寒さは堪えていたのかもしれない。明日は北京へ向かう上に、あちらでは色々と予定も入っていることから、ここはゆっくりと部屋で静養し、外へ出ることはしなかった。酒飲みでないのは本当に有難いことだ。

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