厦門で歴史茶旅2018(3)厦門茶業のレジェンドと会う

11月22日(木)
厦門茶業のレジェンドと会う

厦門3日目。今日は昨日会った張理事長が、『安渓大坪の大先輩、レジェンドのところに連れて行ってあげる』というので、有り難くついて行くことにして、待ち合わせ場所の地下鉄駅まで歩いて行った。ところが到着直前になって、『急な用事が出来たので、一人で行って。場所は息子に電話して聞いて』というではないか。

 

仕方なく電話を掛け、ご自宅の住所を聞き、タクシーを拾って向かった。そこは海が見えるマンションで、環境がとても良かった。言われた部屋に行くと、1928年生まれ、90歳の張乃英さんが、暖かく迎えてくれた。大坪に生まれた張さんは、解放後厦門のお隣、樟州茶廠(厦門、安渓と並ぶ三大茶廠)に長年勤め、その製茶及び評茶技術は周囲に一目置かれる存在だった。

 

お名前からも分かる通り、安渓大坪で、あの台湾に鉄観音を持ち込んだと言われている張乃妙とは同郷、同族。乃妙の一族は今も大坪におり、かなり標高の高いところに家があるのだという。乃英氏の家とは2㎞ほどしか離れていないそうだ。戦争中、集美中学(厦門)が安渓に疎開してきたので、中学に行くことができた、これは日本のお陰だね、笑って話してくれる。その笑顔が実に穏やかだ。

 

1950年代初め、厦門に出てきて茶行で働いた経験もあるという。現在の鎮邦路付近に店があり、今もその建物は残っているかもしれないという。この辺りには往時、大茶商が沢山ビルを構えて店を出し、賑わっていたらしい。それも国営化の波で今やすべて消えてしまっている。

 

1989年に樟州茶廠を定年退職するまで、特に80年代に改革開放が始まると、多くの外国人がやって来た。その中には日本の松下先生もいたよ、という。またコンテストなども始まり、張天福先生と一緒に評茶した写真なども残っている。鉄観音茶が盛り上がったのもこの頃だった。ただ100年前鉄観音は既に大坪にもあり、その形状は半球形だったという。現在の安渓鉄観音茶の惨状を見過ごすことは出来ずに、2016年には個人で安渓政府に意見書を提出し、その結果、豆腐機の使用禁止など、改善策が示されたという。

 

乃英氏の息子は茶業に就かなかったが、父親のそばで色々と見聞きし、現在はその資料を整理しているようで、こちらも歴史にかなり詳しかった。2時間も話し込んだら昼時になり、ご自宅でご飯をご馳走になってしまう。食後も安渓産の水仙など珍しいお茶を淹れて頂き、大いにお話しを聞いた。乃英さんは終始元気だったが、実は半年前に同い年の奥様を亡くされたばかりだった。次回また再訪したい家だ。その機会はあるだろうか。

 

乃英家を失礼し、バスに乗ってバスターミナルへ向かう。そこから開元路に切り込むとレトロ感が溢れてくる。教えてもらった鎮邦路にも一部古い建物が残っていたが、そこが元の茶行かどうかは分らない。Y字路などがあり、道は面白いが、唯一洋行の名前が記された壁があったがそれだけしか発見できなかった。

 

更に歩くと水仙路に出た。この道には聞き覚えがある。先日バンコックで林奇苑という戦前の大茶商の名前を聞いたが、その厦門本店の場所が水仙路だったはずだ。だが現在の水仙路は非常に短い道で、しかも完全に開発されており、現代的な大きなビルが建つなど、往時の面影は全くない。残念ながら厦門で古い茶商を探すことは、国営化と再開発という二つの壁に大きく阻まれ、もはや不可能だと思われた。

 

そこから18年前に宿泊した鷺江賓館の前を通り、人が大勢いるフェリー乗り場からコロンス島を眺め、そのまま歩いて行くと人通りがなくなり、寂しくなる。ここに最初の港があったようだ。軌道の始発駅、第一码头駅まで辿り着き、それに乗って宿に帰る。さすがに歩き疲れて休養する。

 

すると、張理事長からまた微信が入ってくる。ミャンマー、ヤンゴンに本店があった張源美の厦門支店を管理していた末裔と連絡が付いたぞ、というビックリする内容だった。疲れも忘れて飛び出し、指定されたバス停に向かう。何とそこはバス停2つしか離れていなかった。こんな近いところにいたのか。

 

そこに張一帆さんが迎えに来てくれ、今はほぼ休業状態の茶荘をわざわざ開けて見せてくれた。何とそこには古い張源美茶行の看板が掛かっているではないか。私がヤンゴンにいる末裔に会ったというと張さんは驚いて『今は連絡も途絶えている』という。張源美が国営化された時代、張さんのお父さんが店を経営していたが、それ以前の話を聞いたことは一度もなかったという。

 

その理由は文革だった。資本家は打倒されるので、子供に類が及ばないように伏せていたらしい。そのお父さんは、そのまま厦門茶廠に務め、茶業界では有名な方だった。実は昨日厦門茶廠で『中国烏龍茶』という本をもらったが、それはこのお父さんが書いたものだったのだ。僅か3年前に亡くなったという。もしお父さんが生きていれば、今であれば詳しい話が聞けたかもしれない。張さん自身は90年代に茶業が儲かると聞いて、茶の輸出などはしていたが、今は引退の身だという。2000年代の鉄観音茶が緑化していく話などは参考になった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です