杭州・安徽・北京茶旅2017(3)良渚博物館と径山寺

6月22日(木)
良渚博物館

翌朝雨は降っていなかったので、明るい時間帯の文化村を散歩した。様々な創造的な空間がそこにあったが、果たしてどれだけ使われているのかはちょっと疑問だった。杭州市内の混雑を避け、豊かな空間でクリエイティブな仕事をする、というコンセプトはこれからだろうか。

 

針路を北にとり、教えられた通りに、良渚博物館を目指す。道は本当に広く、車は極めて少ない。そして歩行者に対してとても親切。やはりここは中国ではない。北のはずれに博物館はあった。敷地は広い。正面入り口まで歩くのも大変だ。中に入ると参観者は少なく、ここもゆっくり見学できる。この辺の遺跡は1936年に発掘されたとある。発掘の歴史は意外と古い。その発掘者の中に梁思永という人物がいた。彼はハーバードを出た考古学者だが、何と日本に亡命した梁啓超の息子だった。長男で建築家の梁思成とは母親が違うらしい。この一家、調べればすごい人材を輩出しているのではないだろうか。因みに彼は1954年に50歳の若さで亡くなっている。

 

良渚文化は今から約5300年前から4300年前の1000年間栄えたと言われている。この付近にはこれより前に河姆渡文化があり、その関連性などは説明されていない。この文化にはかなりの定住性があり、家もしっかり作られている。井戸などの水回りも整っていた。そして王権というか、リーダーの下で集団生活が行われていたように見える。墓も王家の物が立派なのは勿論、既に庶民の物も作られていたという。この時代にそんなものがあるとは意外だ。かなり高度な文化がここに存在したことを示している。

 

博物館の周囲を一周する。結構な時間が掛かる。とても素晴らしい池があり、蓮の花がちょうど終わった時期らしい。いい眺めだなと写真を撮っていると馮さんから電話があり、車で迎えに来てくれた。これから径山寺へ行こうと誘ってくれたのだ。昨日の村よりはかなり近いところにある。余杭という地名はどこかで見た記憶があったが、以前径山寺に行く時に通過した街だった。

 

径山寺へ
まずは寺に上る前に、下の街で昼ご飯を食べた。そこは一応観光地のようになっていたが、お客は多くない。食堂に入り、エビや魚を食べる。この辺の名物らしい。お茶は普通の径山茶がポットで出てくるからうれしい。私は以前よりこの緑茶が好きだ。誰も知らなかった頃が懐かしい。

 

それから山道を登っていく。以前はここをタクシーで登ったのでよく覚えていないが、かなり急な坂もある。中腹まで来ると突然通行止めになっていた。何と全山全面改修中だということで、誰も入ることは出来ないという。だがここで諦める馮さんではなかった。ちゃんと道はあり、めでたく上に登ることは出来た。どのようにして登ったかは秘密としておこう。

 

だが頂上は無残な場所となっていた。多くの建物が壊され、新しく建て替えられようとしていた。本殿はさすがに修理だけのようだが、その上にあったと思われる茶畑は無くなり、大仏殿、観音殿が立派に建立されている。不思議な体型をした仏像もあった。まるでタイの物のようだった。寺全体を再開発して、観光スポットにでもしようという考えのようだ。さすがに日本では考えにくい大胆な発想。これは寺に資金が溜まったことと地方政府が何等か関係してなされているのだろう。

 

この寺には、静岡茶の源流としての聖一国師の像や、日本茶道の源流に関する碑なども建てられているが、さすがにそれはそのまま置かれていてホッとした。その部分だけが径山寺だと思えてしまうのは、かなり悲しい。日本との繋がりも、今回の再開発で立ち消えてしまうのではないか。それにしても歴史を発掘して守っていこうという良渚と、再開発しようという径山寺、どちらもお金が絡んでいるのは仕方がないことか。

 

以前はあった製茶室を探しても見つからなかった。取り壊されてしまったのだろう。以前はこのお寺で径山茶を作っていたが、今はもうないのだろうと念のために聞いてみると、倉庫のようなところに通された。そこには段ボールが山積みされ、緑茶ばかりでなく、紅茶や白茶まで保存されていた。今やこの寺のブランドを使い、茶園の茶葉を使い、製茶は外注している様子が窺える。販売価格もかなり高い。これが今の中国のお寺商法か。

 

 

帰りに良渚文化芸術中心で降ろしてもらい、馮さんとは別れた。ここには図書館などがあるが、蔵書には期待していなかった。単にこの建物が日本人、安藤忠雄氏により設計されたという理由で寄っただけだ。今や日本の一流建築家は日本ではなく、海外で高く評価され、そちらで作品を残している。それがいいことなのかどうか、私にはわからない。

 

フラフラ歩いて帰ると、一昨日の晩に来たスタバの横に出た。そこにはいくつかの食堂が店を出していたので、夕飯はそこで麺を食べることにした。中国に来るとどうしても食べ過ぎになってしまうので、一人の時は軽く済ませるのがよい。その後宿とは反対にあるスーパーに行き、飲み物を調達。ようやくこの街にも慣れてきたが、明日はもうここにはいないのだ。

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