中国鉄道縦断の旅2015(6)羊楼洞の茶工場

5. 赤壁
ようやくシャワーを浴びる

駅前には本当に何もなかった。長沙とは大違いの田舎の駅へ降りてしまった。既に暗くなっている。とにかくここで泊まり、何としてもシャワーを浴びたいと思っていた。2日前に瑞麗で温いシャワーを浴びたきりなのだ。必死で目をキョロキョロさせると、城市ホテルという文字が飛び込んできた。

 

『ここなら泊まれますよ』と私は勢い込んで言い、S氏も他に行く当てがなくて、一緒にホテルに入った。実はこのチェーンホテル、私は以前泊まったことがあり会員になっていたのだ。1179元の会員価格、出来たばかりのきれい部屋。幸せだった。3人部屋はなかったので、私は一人になった。部屋が暖かい。何とエアコン暖房が付いているではないか。早々にシャワーを浴びた。実に気持ちがよかった。体が心から温まる。

 

腹が減り、皆で外へ出た。だが飯屋はどこも閉まっていた。この駅は本当に乗客も降りないかのように何もない。ようやく明かりが点いている一軒を探し当てたが、何と『ご飯がない』という。仕方なく、おかずだけを頼み、ご飯なしで食事をした。中国でもこんな経験は初めてだったかもしれない。それでも夜はふっくらしたベッドで休むことができた。人間の幸せとは、こんなことかもしれない。

 

1220日(日)
いざ羊楼洞へ

 

翌朝、まずは恒例の駅へ行き、切符を買う。ここから武昌までは硬座で1時間半。その先の武昌太原の高速鉄道の切符まで買えてしまった。但し駅員が慣れておらず、外国人である我々の名前や番号の打ち込みが異常に遅く、他の客の迷惑になってしまった。赤壁というから外国人観光客も沢山訪れているかと思ったが、鉄道で来る人などいないのだろう。

 

何故赤壁で降りたのか。それは赤壁の古戦場へ行く為ではなかった。S氏はあれだけ世界中を歩き回っているが、基本的に観光地には行かないという。北京の万里の長城へ行ったことがないと聞いた時にはひっくり返って驚いた。興味がなければいかない、それはそれでよいと思う。

 

我々の目的地は羊楼洞だった。それは昆明長沙の列車に乗っている時、S氏が『赤壁って、こんなところにあるんだね』と言ったことに始まる。私は以前CCTVの番組で『ロシア人が150年前に建てた茶工場』というのを見ていたが、その場所が確か赤壁の近くにあったような気がする、と言ったのを彼は聞き逃さなかった。それだ、と言い、赤壁駅へ行くことを決めたのだ。

 

慌てたのは私の方だ。何の情報も持っていないのだ。どうやって行くかも、その工場がどこにあるかも全く分かっていない。S氏は駅前でいきなりタクシーを止めて、乗り込んだ。『羊楼洞へ』と私は言った。メーターで4.5元開始だった。いまどきこんな安いタクシーがあるのだろうか。少し行くと赤壁の街があった。駅はやはり街外れの辺鄙なところにあったのだ。 この街の不動産価格は3000元台/㎡、と運転手は言う。

 

『ところで羊楼洞のどこへ行くのかね?』と運転手に聞かれ、口ごもる。『実は150年前のロシア人が建てた・・』と言ってみたが、『そんなの知るわけないよね』と一蹴されてしまった。取り敢えず彼が知っている茶工場へ連れて行ってもらうことで収まったが、前途はどう見ても多難だった。

 

30分後、茶畑が見えた。かなり揃っているきれいな畑だった。羊楼洞茶業の基地と書かれていたが、休みなのか、大きな工場の門は閉まっていた。それでもここに茶畑があったことに、言い出しっぺとしてはホッとした。更には知っていくと、冬の畑が続く中に、その古びた茶工場はあった。

 

 

松峰老知青と門のところに書かれていた。それを見ただけでここが文革下放青年の農場だったと思い当たる。中の建物には古びた写真が展示されており、それを物語っていた。最近文革時代を懐かしみ、ここで労働した人々が戻ってきて飾ったのだろう。それにしてもその古びた様子が、実に絵になっている。カメラマンのNさんは『こんなところに来られて幸せだ』と喜び、盛んにシャッターを切っている。だが我々の目的地はどこにあるのだろうか。

 

人を探したが、よくわからないという。仕方なく門を出て、畑をグルッと見渡した時、ピンと来るものがあった。向こうに見えたがっしりした建物、あれは確かにCCTVに映っていたものではないのか。私は駆け出していた。近づくと確信が高まった。建物の中を覗き込むと、製茶道具がそのまま置かれているではないか。それでもこれだけで断定してよいのか。近所に聞き込みを掛けることにした。

 

近所と言ってもそんなに家があるわけではない。取り敢えず飛び込むと、おばさんは『知らない』と言いながら、老人を呼びに行く。父親だという76歳のお爺さんは『ロシア人とは会ったこともないよ』と笑いながらも、『祖父から向かい側にあるのがロシア人が建てた茶工場の跡だと聞いている』と証言した。後で思い出すと、CCTVの番組に出てきたのもこのお爺さんだったかもしれない。

 

『昔はこのあたり一面、茶畑だったこともあるよ』と懐かしそうに話す。100年前は凄かったんだろうな。それにしてもなぜこんなところで茶作りが行われたのだろうか。今でも茶畑はあるが、全て付近の大手茶工場に茶葉を供給しているそうで、ここでの茶作りは既に終わっていた。今は使っていないという工場に入ることはできなかったが、焙煎設備が見える。

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