万里茶路を行く~北京から武漢まで(8)宜紅を見に行ったが

7. 宜都
宜紅茶業

 

バスターミナルには迎えが来てくれたので、スムーズに目的地に行けた。まずは予約しておいてくれたホテルに入る。これでもう今日もホテルの心配をしなくてよい。今後も相手には大変申し訳ないが、出来るだけ現地の人にホテルを手配してもらうようにしようと思う。それが現時点では一番安全だと分かる。またそれをお願いできる関係があった方が、茶旅自体もよい方向に行くと信じている。

 

今回訪ねたのは宜紅茶業という、この地域の元国営工場であり、今世紀に入り民営化された紅茶工場。副社長の章さんに会いに行く。女性ながら長年茶作りをしてきたベテランだ。元々は殆どが輸出用だったが、最近紅茶ブームが来ているので、宜紅のブランド力を強めて、国内販売に力を入れて行きたいという。宜紅はきれいな茶葉だったが、少し渋みが感じられる。ブレンドに適していたのかもしれない。

 

 

因みに国営工場時代、章さんは副工場長だったという。今の社長が工場長。そのままそっくり引き継いだ感じだ。1990年代には松下先生が2度ここへ来たよ、と言われてびっくり。先生の持論の一つである『茶は武陵山系から』というのはこの辺のことだったのか。確かに少数民族の茶作りもあるようだ。ヤオ族はいるのだろうか。このあたりは土家族が多いらしいが。

 

現在のオフィスのある場所は昔製茶工場だった。横には長江が流れ、屋上から先の方を見ると、もう一つの河と交差していた。100年以上前なら、この川の合流地点は製茶にとって絶好の場所だったであろう。やはり輸送という観点は重要だ。現在工場は新しい場所に移されているという。午後は茶畑を見に行きたいとお願いした。

 

ただ主要産地はあまりにも山の中で遠いので、近くにある試験場を見に行った。非常にきれいな、管理された茶畑が広がっていた。今は製茶の時期ではないが、芽が吹き始めている。夏茶が近いのかもしれない。本当は五峰山にある茶畑を見るべきだったのだが、天気も悪く、滞在時間が短すぎたのは反省だ。これからは最低2泊する予定で行かないと、見るべきものは見られないと悟る。

 

夜は章副社長に誘われて、食事会に参加した。社長も来ており、更に突っ込んだ話を聞こうとしたが、恩施から来たという提携業者?と事業に関して激しい議論が展開されており、全く話に入る余地がなかった。ただご飯を食べただけに終わる。レストランは泊まっているホテル内だったので、送ってもらう必要もなく、記念写真だけ撮って、お先に失礼する。雨音がしたが、疲れていたので、すぐに寝てしまった。

 

625日(土)

 

翌朝も雨だった。何だか気持ちも暗くなってしまう。昨晩の業者間の話、方言が強くてよくは聞き取れなかったが、雰囲気としては『どうやってもっと売っていくのか』ということではなかったかと思う。茶業界は厳しい時代を迎えている。宜紅の生産範囲には、相当離れた恩施で作られた物まで入ることを知る。宜都から恩施まで、同じ地域とは思えないが、次回は恩施にも行って、実感してみたい。

 

工場を案内してくれるというので、スタッフに連れられて、街から結構離れた場所を訪問した。ただ雨で工場は全く稼働しておらず、写真撮影も禁止ということで、お茶を飲んだだけで何も見ずに立ち去った。ちょっと不完全燃焼のまま、宜都を立ち去る。工場は宜都と宜昌の間にあるというので、車で宜昌東駅まで送ってもらった。雨なので助かった。切符は買ってあったので、列車にすぐに乗れた。2時間で漢口に戻り、また同じホテルに入る。

 

8. 武漢3
漢口のロシア租界を歩く

 

一度昼食を食べて外へ出たが、すぐに戻る。少し待つと劉先生と万さんがわざわざ来てくれた。今日の午後は漢口の万里茶路関連の場所を案内してくれるという。これは得難い機会なので、お言葉に甘えた。外は残念ながら小雨。車で漢口の川沿いまで来て下りる。Mさんも暇だというので合流した。100年以上前に埠頭があった場所が近いというので見学する。『東方茶港』と書かれた石碑があるが、ここにさえ自分で来ることはできなかったかもしれない。公園になっており、なぜか蒸気機関車が展示されている。

 

埠頭自体は今も使っており、観光船が発着しているようだが、今日は雨で乗客はいない。それほど広い場所でもなく、写真で見る限り、往時はここに茶葉が運び込まれ、荷物が積み込まれていたが、今はその面影な全くない。その繁栄を語られても、正直ピンとは来ない。ここはロシア租界から近かったらしく、製茶された茶葉がそのまま運び込まれたとの話も聞いた。やはり現場に来ないと実感はわかない。

 

それから川沿いの通りを歩く。フランス租界のインドスエズ銀行ビルが何とも美しい。近くにはアメリカ領事館跡も見える。道を少し入るとロシア領事館跡があったが、何と取り壊しが始まっていた。我々が中を見ようとすると、守衛さんに止められた。歴史的建造物の表示があるにもかかわらず、壊してしまうのか。それが今の中国だろう。ロシア政府は何も言わないのだろうか。金の力が優先するのか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です