会津から北関東へ2020(3)会津から西那須野へ

また城の周囲を回って、山川捨松の家があった場所を探す。ようやくその看板を見つけたのは、もう日が暮れかかる頃だった。山川家はこの街の名家であり、有名人も輩出している割には、その扱いが小さい理由は何だろうか。捨松が仇敵大山巌と結婚したこともあるのだろうか。

その後まんじゅうを買い込む。日本国内を旅すれば、どこでも土産の和菓子が売られているが、これを箱で買って帰っても、もう喜ばれなくなっていた。それならばら売りしているものを買って、宿で食べる方がよいと考えた。今回はあわまんじゅう、というものだった。

結局雨は降らずにその日の活動を終えた。夕飯も出来るだけ地元の名物を食べようと思い検索したところ、なぜか会津カレー焼きそばというのが登場したので、食べてみることにした。簡単に言えば焼きそばにカレーがかかっている物で、焼きそばもカレーもまずくはないのだが、別に別に食べても良いかと思った。それに普通の焼きそばと普通のカレーで1000円も取られるのは、何となくコスパが悪い。

12月9日(水)会津若松3

会津最終日。今朝は天気も良かったので、半日歩いてみた。西軍墳墓なるものがある。ここでの戦いでは、会津人だけではなく政府軍も相当の死傷者を出したことだろう。七日町通りを行くと、斎藤一の墓に出くわす。剣の達人とも言われた斎藤は会津生まれでもないのに、会津戦の後ここに残り、会津人と共に斗南に移り住んでいる。

その後郊外の方まで歩いて行く。蒲生氏郷がキリシタンだったので、その痕跡はないかと思ったが、教会なども見付からない。郊外に僅かにキリシタン塚という碑が建っており、江戸初期この付近で殉教したキリシタンが埋められた場所らしい。すごくいい天気で、空も青く、雲の感じもよい。

那須野へ

会津での活動を終了し、また電車で郡山方面へ戻る。郡山から新幹線に乗らずに在来線で行く。東北本線も今や細切れ。新白河、黒磯で始発に乗り換えていく。途中でSuica使用不可を知ったが、西那須野駅で精算してくださいと言われ、降りて申し出ると『ちゃんと確認して乗って』と言われたので反論しようかとも思ったが、無駄だと知っているので、黙って精算した。

今日は実に久しぶりに旧友Mと会うことになっていたが、少し早かったので、荷物を持ったまま、散策する。向かった場所は大山巌、捨松の墓所。立派な参道があったが、固く扉は閉められており、お参りすることは叶わなかったので、外から拝む。その向かいの道は大山参道という名前で、もみじ並木と書かれていた。

駅に戻り、言われていたバスに乗り込む。ところがほぼ同じ時間に2本バスがあり危うく乗り違えるところだった。バスで15分ぐらい乗ると、そこに病院があり、そこで降りて予約された宿を探す。ここはMの勤務地であり、宿はその横にある。何と大浴場もあり、部屋も広い。しばし寛いでいるとMがやってきた。10年ぶりの再会だろうか。

彼の車で駅方面へ戻る。車を彼の自宅に置き、奥さんに挨拶する。会うのは20年ぶりだろうか。若い頃から知っている人に会うのは何となく気恥ずかしい。お母さんにもご挨拶したが、『ああ、名前は聞いたことがあるね』と言われる。もう40年以上前の知り合いなのに、何とも記憶力が良い。いずれにしてもコロナ禍なので早々に失礼した。

Mに連れられて近所の美味しいイタリアンへ行き、夕食をごちそうになる。Mの行きつけだというが、最近はコロナの影響を受けて、お客は多くない。そもそもM自体が、以前とは全く異なる医療関係に勤めている訳で、コロナの影響はあるはずだ。だがこの時点では『実は栃木の県北はさほどひどくない』ということで少し余裕が感じられた。コロナ患者は多くないのに、レストランが閑古鳥というのはなんともいえない。

Mとは長い付き合いがあるが、最近10年のお互いの状況はあまり報告していないので、話は長くなる。食事を終わっても話は尽きずに、彼はタクシーで私を送ると言って、そのままホテルまでやってきて、部屋でまた話し込んだ。最近はウクレレを始めたと嬉しそうに言う。二人の娘も成人している。彼の人生のディテールを知っているかといえばそうではないが、大枠、いや若い時期の成り立ちを知っているというのは大きい。夜更けになって彼はタクシーで帰っていった。

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