会津から北関東へ2020(2)会津の多彩な歴史に触れる

そのすぐ近くには、大河ドラマで主人公にもなった直江兼続の屋敷跡もあった。そう、上杉景勝も会津を領地としており、あの関ケ原の戦いでは家康がここに進軍してきて、途中で小山評定となり、関ヶ原へと反転している。会津というのは考えるまでもなく、日本史上では極めて重要な土地なのだ、だから重要な人物が配置されるのだと改めて実感する。

更に歩いて行くと、日新館天文台跡がある。何だか石垣の上に供養塔でも載っている感じで面白い。江戸時代から天文学が教えられていたのだろうか。この付近一帯には、白虎隊士の実家がいくつもあったようで、その表示がある。更には山本覚馬、八重生誕の地という看板も見える。これは大河ドラマによって発掘?された場所なのだろう。やはり動機が生まれないと歴史は掘り起こせない。

ようやく実に見事な外観のお城が見えてきた。150年前、この城を巡って凄惨な戦いが行われたとは思えない見事さだ。城へ入って見る。本丸跡は広場になっている。入場料を払って城を上っていくと、かなり詳しい展示が目に入る。その多くが会津戦争を戦った人々とその後のことであり、大変参考になった。そして城の上から見ると。会津の街がよく分かる。

広場を歩いて行くと、麟閣という名の茶室があった。この茶室のいわれはすごい。千利休切腹後、高弟蒲生氏郷は秀吉に願い出て、利休の子、少庵を会津に引き取り、この茶室を与えたという。権力者に逆らって死を賜った人間の子供を引き取るとはすごいことだと思うが、同時にこれが後の千家の茶道に繋がっていくのだから、面白い。非常に良い天気の夕暮れ。写真がまぶしい。

その後もグルグルと歩き回る。城近くの小さな公園に、柴四郎、五郎兄弟生誕地の看板を発見した。文士の四郎と軍人の五郎、いずれも興味深い会津人であり、今後彼らの足跡を追っていくことになるだろう。特に柴五郎の『ある明治人の記録』がとても気になっている。城の周りには萱野権兵衛や西郷頼母など、会津藩家老の屋敷跡などの看板も立っている。当然のことながら、現物は全て会津戦争で焼けてしまったことだろう。

12月の会津、その日暮れは早い。5時過ぎには腹も減ってきたので、宿近くの食堂に入る。会津の名物がソースかつ丼とは知らなかった。調べると『大正時代から親しまれてきた会津庶民の味。ごはんの上に千切りキャベツを敷き、その上にソースを浸したトンカツをのせます』となっている。この食堂、狭い店内で高校生が食べている。なかなか美味しい。

12月8日(火)会津若松2

朝起きると頭がボーっとしている。昨日よく眠れたからだろうか。宿の朝食はビュッフェスタイルを禁止して、弁当スタイルになっていた。結構おいしい和定食だったので、テンションは上がる。当然ながら宿泊客は多くなく、朝食を食べている人はさらに少ないので、感染対策の厳格な中、ゆったりと頂く。

今日の天気予報は雨。雨の中を歩いて行くのは厳しいと思っていたが、外を見ると降っていなかったので、先ずは降るまで歩いてみることにした。とにかく会津といえば白虎隊、白虎隊といえば飯盛山だから、そこを目指して行く。心地よい寒さで歩きも軽快になる。その名も白虎通りを歩き、階段を上ると誰もいない、白虎隊墳墓に出た。横には婦女子の墓もある。史実は別にして、ここで多くの若者が亡くなったこと、更には会津戦争で多くの婦女子が亡くなったことに言葉もない。白虎隊の生き残り、飯沼貞夫の墓もある。確かにここからは会津の街がよく見えた。

それから山本家の墓所大龍寺、そして愛宕神社の後方の山中に分け入ると、新選組近藤勇の墓、土方歳三の記念碑を見て、更に松平家墓所で歴代藩主の墓を見ると、新選組と会津、戊辰戦争が目の前に飛び出してくるようだ。その後その昔この地を収めていた芦名氏ゆかりの地を訪ね、なぜかそのまま小田山(芦名氏の山城)を上り始めてしまった。ここまで歩くと相当にきついが、なぜか雨は降らない。

その山の頂上まで登るのは大変だったが、会津が一望出来た。山城とはそのような場所なのだろう。冬枯れの木々、中腹にはあの柴四郎五郎など、柴家一族の墓がきれいに並んであった。ここでは墓参も大変だろう。更に下に降りて、善龍寺に西郷頼母の墓を探したが、その墓の小ささにはちょっと驚く。これは人柄なのだろうか。また西郷の母や妻など21人は、城に入らず、自ら命を絶ち、ここに葬られている。

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