会津から北関東へ2020(1)真冬の会津若松へ

《会津から北関東へ2020》  2020年12月7日-11日

いよいよコロナ再流行が見えてきた。来年夏のオリンピックも本格的に中止の検討に入っているかもしれない。とにかくこの1年、3月にバンコックから逃げ帰って以来、海外に行けないどころか国内さえ、思うような旅はできない。今年最後の旅として、ひっそりと福島へ向かう。実は47都道府県の内、1泊以上の宿泊経験がない県に福島が入っていたのは自分でも意外だった。子供時代を栃木で過ごしたのだが、栃木市は東京を向いており、北は視野に入らなかったのだろう。

12月7日(月)会津若松へ

福島で行ってみたところといえば会津若松だ。茶旅以外の旅で興味があるのは歴史だから一度は行かなければと思っていた。ちょうど時間が空いたので、寒いだろうとは思いながらも、大宮から新幹線に乗った。乗ってちょっと考え事をしていたら、もう郡山に着いてしまった。これだから新幹線は情緒がなく、つまらない。

郡山駅で会津若松行きの在来線に乗り換えようと自動改札に切符を入れると、切符は吸い込まれ、何も出てこない。在来線ホームにそのまま行けた。だがよく考えてみると、これだと切符もなく、Suicaのタッチもしていないので、何となくおかしいと思い、駅員にその旨申し出ると『駄目だよ、切符持っていないのなら、出口を出て買わなきゃ』と怒られてしまった。確かに乗車券は郡山までしか買っていなかった。

しかし自動改札があるのにお客の方が考えなければならないのだろうか。実はこの路線、郡山から会津若松はSuicaが使えるのだが、東北本線の郡山-黒磯間は使えないという変則になっていると後で分かり、それならちゃんと書いて置けよ、と文句を言いたくなる。JRの年配の駅員にも偉そうな人がたまにいるから気を付けないといけない。

乗り換え時間に間があったので、郡山駅を探索する。土産物屋は充実しているようだったが、ちょうど駅そばが目に入る。そういえば朝飯も食べていなかったので、ここで朝昼兼用うどんを頬張ることになる。やはり温かいうどんは何とも有難い。

磐越西線はゆっくりと走っていく。途中に温泉があり、山もきれいに見えた。冬の東北はもっとうらぶれた印象を持っていたが、これは快適だ。隣の座席では、親戚同士が久しぶりに出会ったようで、話に花が咲いている。コロナで人の往来が途絶えたのは、むしろ地方の方だったようだ。

1時間20分ほど乗って、終点会津若松駅に着いた。駅前には白虎隊の像が建っている。取り敢えず観光案内所に立ち寄り、地図を貰うついでに、『山川捨松ゆかりの場所』を尋ねてみたが、皆さん首を振るばかり。え、今度お札になる津田梅子さんと共に明治初期にアメリカに留学した女性、しかも後年大山巌夫人となった女性が地元で殆ど顕彰されていないとは。係員は申し訳なさそうに『捨松さんが会津に居たのは幼少期だけですから』と説明されて、何となく納得して外へ出た。

会津若松1

予約したホテルは駅から数分歩いたところにあった。昔はいいホテルだったのだろうが、ちょっと老朽化が目立つ。結婚式相談所や旅行会社がホテル内にあるのがそれを物語っている。料金が安いのはそれだけの理由だろうか。フロントの対応は門切り型で温かみはなかった。寒さはそれ程でもないが、天気はどんよりとしており、明日は雨との予報もあったので、今日の内に回れるところは回っておこうと宿を飛び出した。

取り敢えず当てもないのでお城の方に歩いて行くと、会津の商店街があった。その裏側に、ひっそりと寺があった。興徳寺、何とここにあの戦国随一の武将とも言われた蒲生氏郷の墓があると書かれている。蒲生氏郷は40歳の若さで京都に死んだ。その時の領地は会津若松であり、あの城も氏郷が築いたという。天才の寿命は短いということか。

そのままずっと歩いて行くと、お城のへりにぶつかった。そこには藩校日新館にゆかりのある人物が書かれた看板があった。その中には山川大蔵、山川健次郎両兄に下に捨松の名前もあるではないか。その横には山本覚馬、新島八重の兄妹の名前もある。こちらは大河ドラマ八重の桜で、名前が売れていた。

そこから少し行くと、山鹿素行誕生の地という看板があった。あの山鹿流陣太鼓、忠臣蔵でもお馴染みだが、その素行が会津出身とは初めて知った。しかも父親は伊勢亀山から会津に移ってきたというから、蒲生家と何か関係があるのかもしれない。記念碑が建っていたが、その字は東郷平八郎だった。

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