《軽井沢旅2020》(2)軽井沢から北軽井沢へ

11月10日(火)軽井沢から北軽井沢へ

今朝は零度と寒かった(部屋は快適に暖かったが)。宿の朝食は何とカレー。これが意外とうまくて、完食する。フロントによれば昨晩この宿は満室で、食堂が狭いため、希望時間に朝食が取れない可能性があるとのことだったが、その通り満員だった。そんなにこの寒い軽井沢に人が来るのかと思ったら、『今年最後のバーゲンが昨日までだった』のだとか。今晩はだいぶ少ないらしい。

Kさんが迎えに来てくれたので、朝からなぜか軽井沢霊園に行く。軽井沢の歴史、特に外国人の歴史を知るには墓地が良いとのことだったが、残念ながらここには外国人墓地はなく、開発される前の軽井沢住民の墓などは見られたが、成果はなかった。そのまま歩いて、雲場池を散策する。天気も非常に良かったので、バーゲンを終えた観光客がかなりおり、皆が写真を撮っていた。

そこから車で少し離れた立派なホテルに行った。ランチの時間には少し早かったので、いきなり庭に出る。そこには実に自然な景観が広がっており、とてもホテルの庭を歩いているとは思えない。沢を降りていくように、小川に向かっていく。ここは軽井沢の水源で、中山道を行き交う旅人が飲み、そして明治天皇もこの水を飲んだ、御膳水と説明書きに書かれている。

ここのランチは美味しいパスタだった。リーズナブルでよい。しかもKさんが『天気が良いのでデザートは庭で食べたい』とわがままを言っても、笑顔で聞いてくれ、テーブルを用意してくれた。枯葉が微かに舞い落ちる、柔らかい日差しの中で食べるデザートは格別だった。

そこから車は雄大な浅間山を眼前に見ながら進んだ。浅間山といえば、歴史的には江戸時代に起こった天明の大噴火を思い出すが、今でも何となく白煙が出ているように感じられる。そして車はいつの間にか県境を越え、群馬県に入っていた。そこにも軽井沢があったのに驚く。北軽井沢。

ここに北軽井沢という駅があったらしい。草津との間を結んだ、その軽便鉄道の駅舎が残されており、そこには大学村の説明などもあった。何と大正時代に法政大学の学長がここに、教職員と学生を中心とした理想的な教育と共同生活の場「法政大学村」をつくろうと思い立ったというのだからすごい。初期の村民には岩波書店の創業者である岩波茂雄や安倍能成、谷川徹三、野上弥生子、津田左右吉、小泉信三らがいたというから、話題性のある、本格的な村だったことが分かる。

車はそのまま進んでいき、ハイロン村に入った。カタカナの地名は珍しいなと思っていたら、何と現在の中国黒竜江省海倫のことだった。満蒙開拓団の入植地として知る人ぞ知るこの村、第二次大戦前に群馬県各地から集められた開拓団の人々が終戦後日本に戻り、政府から払い下げられた土地を開拓したという。日本で開拓した場所に満州の地名を付けるのは極めて稀ではないだろうか。

近所に住む80歳を越える元気な女性に話を聞くことができた。『私は7歳で引き揚げた。少し怖い思いをした程度で帰国できたが、ハイロン村の住人は1945年9月11日に匪賊の襲撃に遭い、多くが犠牲になった。今でも毎年この日に村人が集まり慰霊祭をしているが、もう生き残った人も、大方あちらへ行ってしまったよ』と寂しそうに語る。

群馬に戻っての開拓は苦労が多く、生活も大変だったというが、『最初はリンゴなど果樹園をやり、息子の代になると値段の高い白菜など高原野菜に切り替えた』といい、現在も現役で農業をしている。人手不足のため、海外から技能実習生を迎えて、補っている。

『満州で満人に厳しく当たってきた日本人は、終戦後逆にひどい目に遭ったんだよ。うちは比較的優しく接してきたから、返って彼らに助けられ、生き延びた』『だから中国人でもベトナム人でも、うちに働きに来てくれる実習生にはできるだけ優しくしている。孫が沢山増えたと思えば楽しいよ』という言葉が、非常に印象的だった。

実習生も最初の頃は中国人だったが、今ではインドネシア人に代わっている。この寒い北軽井沢で、宗教も異なる彼らの苦労は大変なものがあるが、お祈り部屋まで設けた、その立派な宿舎を見れば、厳しい立場の人にどう接するべきかを身をもって体験した人の温かさが分かる。

最初はコロナ禍を気にしていたが、話している内に打ち解けてきて、最後は村はずれの小高い丘の上、大きな慰霊碑が建っているところまで案内してもらった。浅間山が真正面に見える場所に、周囲には各家の立派なお墓が並んでいるのは圧巻の光景だった。満州の大平原とは違い、山に囲まれた、小高い所にお墓があるのは、やはり満州へ行った人々の、強い故郷への思いではないかと勝手に想像してしまった。

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