ある日の埔里日記2017その6(14)激白!台湾茶輸出の歴史

12月26日(火)
朝から晩まで茶

翌朝は早く起きた。そしてお湯を沸かす。トミーから昨日もらった茶葉を取り出して、写真を撮る。それから茶葉を湯に浸し、水色を確認する。7種類もある。緑茶、部分発酵茶(包種茶、高山茶、凍頂烏龍茶、白毫烏龍茶、鉄観音茶)、紅茶、これは意外と大変な作業だったが、お茶そのものが予想以上の品質で、美味しいため、思いのほか、口に含んでごくごく飲んでしまう。

 

なんで朝からこんなことをしているかというと、実は台湾の日本語雑誌、『なーるほど・ザ台湾』の2月号にお茶の特集記事を書くように頼まれ、同時にお茶の写真を求められたからだった。台湾茶の種類、という項目だったが、どうやって説明するのかには苦労し、結局改良場のHPに書かれた通りとした。

 

トミーのところには100種類以上の茶葉があるので、それを拝借したのだが、その質が想定より高かったので驚いたわけだ。ただいくら品質が良くても、その味や香りが写真上で表現できるわけもなく、私一人が楽しんで味わってしまっていた。それでも朝から7種類となると、結構な時間がかかり、また飲むのも大変だったことは間違いない。

 

それが終わると、MRTで一駅先の大安森林に向かって歩く。今日は以前関西でお世話になった羅さんに、出来上がった雑誌を渡すことになっており、モスバーガーが待ち合わせ場所になっている。このモスバーガー、もう30年近く前、電機屋の黄さんが『これからは台湾でも流行るよ』と言って始めたものだが、今では台北を歩くとよく見掛けるまでになっている。一つずつの店舗は小さいが、着実に伸びているのだろう。

 

取り敢えずその店に入り、朝飯代わりの注文をする。この時間帯でも店が狭いせいか、結構お客がいる。席について、また羅さんに連絡するが電話にも出ない。これは何かあったのでは、と心配になるが、連絡手段をそれ以上持ち合わせておらず、どうしようもない。ただただ待つ。食べ物も食べ終わり、飲み物を飲んでも、事態は変わらなかったので、ついに30分後に店を出て、宿へ帰った。

 

宿に辿り着くと羅さんから電話が入る。どうやら奥さんがちょっとしたけがをして夜中に救急病院に運んだらしい。それが一段落したので寝入っていたという。今から来るというので宿の前で待つと、車でやってきてくれた。そして私の次にアポが製茶公会であると知ると、車を円環方面に回し、ホルモン系の美味しい店に連れて行ってくれた。客家系の料理は何でも好きなのだが、ここのスープも美味しかった。

 

それから製茶公会のビルに向かう。そこで東京から来たWさん夫妻と待ち合わせた。お茶関係の知り合いでたまたま台北に来たので、合流した。公会では、6年ぶりに会う黄正敏さんが待っていてくれた。トミーのアレンジだ。やはり台湾輸出の歴史は黄さんに聞くのが一番良い、という結論に達した訳だ。黄さんは数年前に既に台北のお店も閉め、今は公会顧問の肩書はあるが、悠々自適に見える。

 

黄さんには約7年前、2度ほど流ちょうな日本語で台湾茶の歴史を教えてもらい、大稲埕を一緒に歩いて説明までしてもらっていた。更には当時の第一人者、徐英祥先生まで紹介してもらい、先生が亡くなる直前に一度だけお会いすることができ、そこから魚池の改良場まで繋いでもらい、今の私の立ち位置がある。まさに大恩人なのだ。

 

私は台湾茶輸出の歴史を改めて問うた。そこから2時間半、黄さんの怒涛のような講義が始まった。特に光復後の台湾茶の変遷、10年ごとに変わる流れ。紅茶、包種茶、煎茶、烏龍茶、その生々しい話にはやはり迫力があった。北アフリカから日本や中国、そしてピンクレディーや伊藤園まで登場するから、話の幅が半端ない。

 

我々日本人が知らない日本の歴史も次々に登場する。あー、お茶の歴史は日本史や台湾史、いや世界の歴史に直結しているのだな、と改めて感じる。それにしても80歳の黄さん、どうしてあんなに元気なのだろうか。6年前より確実にアワーアップしている。やはり全てから解放されているのだろうか。

 

それにしても、黄さんの他、理事の羅さん、事務局長の範さんと娘さん、そしてトミー。そうそうたるメンバーがこの会合に出ていたが、黄さん意外にしゃべる人はなく、私が1つ質問すると、滝から流れ落ちる水のように答えが返ってくる。これは録音しておかないととても整理できないな、と思った頃、この会は終わってしまった。刺激は強かったが、私の中に何が残っただろうか。曲がり角にやってきた台湾茶に関しても、参考になる話だったと思う。

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