ある日の台北日記2018その3(4)ご縁を繋いで

11月6日(火)
ご縁を繋ぐ

昨年から大茶商、王添灯氏について調べており、そのお孫さんである黄さんには何度も大変お世話になっていた。黄さんには王添灯以外にもう一人、父方の祖父がいる。黄鐵という名前のこの方、日本の会社の丁稚から身を興し、日本統治時代に日本の大手メーカーの台湾における販売代理店社長になった人だった。黄さんの家には祖父の遺品が沢山あり、是非その日本企業に見せたいという希望を持っていた。

 

その依頼があった時、私はとても驚いた。というのが、私が会社に就職した最初の職場の最初の上司が、何と黄さんの言った会社の関係者だったのだ。取り敢えずその先輩に連絡し、先輩がその会社に口をきいてくれ、ついにその会社の現在の社員が出張のついでに、黄さん宅を訪問する段取りとなったのだ。

 

当日その社員、Kさんと滞在先のホテルで待ち合わせ、タクシーで黄さん宅に向かった。だが途中で黄さんから電話があり、行き先が少し変更となる。黄さんたちが待っていたのは自宅近くのおしゃれなカフェ。そこに段ボールがいくつか持ち込まれており、広いスペースでゆっくりと拝見することとなった。

 

黄さんの弟さん、ご主人、娘さん(赤ちゃんも)まで同席され、沢山の資料が示され、色々と説明があった。こんなに資料が整っているのは、3年前に台北でこの遺品の展示会を行ったからだ。この展示会を見に来た当時を知る人からまた情報が寄せられたともいう。中には台湾の大企業の経営者もいたというから、興味深い。

 

この展示会のために、娘さんが主に資料をまとめ、ビデオまで作られていて、本当に驚いた。同時に当時の大稲埕付近にあった、自宅や関係する会社など、黄鐵氏ゆかりの場所の地図も作られていた。今度この地図をもって大稲埕を散策してみるのも悪くないと思う。

 

終戦に伴い、日本人が引き上げた後、この商品は日本から入って来なくなってしまう。黄氏は以前よりその製法などを研究しており、台湾で自ら作ることにしたらしい。その会社は途中で一緒に経営していた台湾人が引き継ぎ、今では誰もが知る会社となっているという。同時に黄氏が生きている間は、日本企業との連絡もあったと言い、黄さんは子供の頃に会った日本人のことを語り出す。

 

今回ご縁を繋ぐことが出来たことで、黄さんたちが非常に喜んでくれたことは、素直に嬉しい。このカフェで皆さんとブランチを食べながら、話は色々な方向へ向かい、盛り上がる。先輩に良い報告が出来ることも、何とも有り難い。茶の歴史を学ぶ中、こういう機会が有ると、もう一つのやりがいを見出すような思いだ。

 

Kさんとタクシーに乗り、皆さんと分かれる。すぐに懐かしい道を見つけて降りる。そこは31年前、私が暮らした場所だった。長らく行っていなかったので、当時住んでいたところを訪ねてみることにした。ここは松山空港のすぐ南側であり、飛行機の音が聞こえると特に懐かしい。当時は国内線と軍用の飛行場であった。

 

敦化北路と民生東路の大きな交差点には、今もマクドナルドがあり、それほど大きく変わっているようには見えない。その先を入っていくと、昔は完全な、静かな住宅街だったが、今はおしゃれなカフェやレストランが多くある賑やかなエリアに変身していた。大体の場所に既視感はあったものの、自分がかつて暮らしたアパートを認識することは出来なかった。このアパートでは、何と空き巣に入られ、大変な思いをしたので、印象は強かったはずなのに、最近の急激な忘却は、もう止めることは出来ない。

 

帰りは天気が良かったので、U-bikeに乗っていく。途中懐かしい場所を幾つも通り、U-bikeは勿論、MRTもない時代の外出を懐かしむ。30年経ってもまだ建っているビルは多くあり、1つずつの思い出が頭を過る。私は間違いなく、30年前この街で暮らしていた、生きていたと実感は出来るが、記憶の曖昧さは美しい思い出だけを小出しにしているようにも見える。今私が茶の歴史で話を聞く老人たちも、もしやすると、こんな感じで昔話をしてくれているのかもしれない。

 

夜、腹が減り、近くの屋台街へ向かう。何だか炒飯が食べたくなり、探してみるが見付からない。ようやくあったその店の炒飯は正直それほど美味しくはなかった。何が違うのかは分からなかったが、何かが違うのだ。それは今の台北が、30年前の台北と何かが違うのだ、と感じるのと同類のようにも思えた。

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