ある日の台北日記2018その2(8)ベトナム華僑と会う

9月23日(日)
アフタヌーンティーをしながら

流石に朝4時に起きて空港まで行ったので、帰ってくると眠気が凄い。昼までは寝ることにした。起き上がって少しするともう出掛ける時間となった。今日はインドから来ている知り合いのOさんと会うことになっていた。Oさんとは数年前、バンコックのお茶会で知り合ったのだが、その後彼はいつの間にかインド、それもラダックに行く途中にあるマナリー付近に引っ越していて驚いた。しかも発酵関連のワークショップなどをやっており、二重に驚く。

 

ちょうど台北にいることが分かったので、彼の宿泊先に会いに行く。その前に小腹が空いたので、雲吞麺を食べる。偶に食べると美味しい。そして数年ぶりの再会。この宿の付近にはカフェなどもなく、探して歩き出す。今日は日曜なので、人はほとんど歩いていない。曇りで暑くもない。

 

話に夢中になっているといつの間にか南京路に出ていた。そこにちょっとおしゃれなカフェがあったので見てみると、何と紅茶館だったのだ。台北で紅茶専門店は極めて珍しいので入ってみる。このお店、1990年頃からあるようで、かなりの老舗だった。週末の午後ということで、家族連れが豪華なアフタヌーンティーを頼んでいる。男二人はちょっと浮いていたかもしれない。台北も普通にアフタヌーンティーを楽しむ時代が来たようだ。

 

インド紅茶とお菓子のセットを頼んでみたが、お菓子はかなり甘かった。最近の台湾人は甘い物を食べないと思っているが、これは伝統的な部類なのだろうか。Oさんは甘党だと言って食べていたが、私は全部は食べ切れない。紅茶は美味しいので、お菓子もいずれ甘さの調整が入るだろう。

 

Oさんはインドで味噌を作ったりして、発酵の研究をしているのだという。これはとても興味深い。マナリ―という街は是非訪れたいと思っていたので、出来るだけ早く訪問することにした。黒茶など、お茶でも発酵が絡むものもあるので、相互の情報交換は有意義だった。気が付けば4時間近く話し込んでいた。おまけに10日後にバンコックに行く予定だというと、そこでも一緒になることが分かり、ご縁を感じる。

 

9月25日(火)
ベトナム華僑と会う

実は今回台北に来てすぐに茶商公会で総幹事から一人の女性を紹介されていた。その人はベトナム華僑で、一族は茶業をしていたというので、ベトナム茶の歴史が分かるかもしれないと思い、連絡を取ったのだが、ちょうど都合が悪かったのか、その後連絡はなく、そのままになっていた。それが突然『いつ会うの?』というメッセージが飛び込んできて驚く。

 

明日には帰国すると言ったところ、では今日会いましょう、ということになり、急きょセッティングされた。こちらまで来て頂けるというので、取り敢えず大安駅近くの茗心坊で落ち合うことにした。彼女は店に入ってくるなり『いいお店ね』と言ってそのままお茶を飲み始めたので、ここで話を聞くことになってしまう。お店には迷惑な話だっただろう。

 

基本的に彼女、林さんは音楽家で、現在も音楽を教えている。茶業の歴史については殆ど知らないと言い、伯父さんが書いたという1冊の本を見せてくれた。本当はコピーしたかったが、初対面で預かる訳にもいかず、何より明日帰るので、致し方ない。断念した。彼女の家業ビジネスで何となく分かったことは、日本統治時代、福建に本拠があり、台湾から茶葉を東南アジアへ輸出する大手茶行であり、光復後は香港経由でベトナムに茶を輸出、そして解放後はホーチミンに逃れ、そこで彼女が生まれた、ということだった。

 

確かに資料にも名前がある茶行であり、興味深い。そして彼女も幼少期、ダラットの紅茶作りなどを見た記憶もあるということで、南ベトナムでのお茶の様子が少しわかった。ただそれもベトナム戦争終結とともに、また逃げ出すことになり、親族の一部はアメリカへ、彼女らは台湾に移住したのだという。勿論ここで茶業は完全に途絶えた。現在ホーチミンに行っても古いお茶屋が殆ど見られないのは、やはり戦争のせいだろう。

 

茗心坊の店主も姓は林であり、しかも同じ客家の出であることなども分り、この二人も突然繋がっていった。林さんは上海で手に入れたという、古い茶を持ち出し、この包装にあるマークはお宅のでしょう、と言ったので、本当に驚いてしまった。お茶と言うのはどこで繋がっているのか分からない。

 

今回台湾滞在もこうして終わった。毎回そうだが、とても実りが多く、また謎もどんどん深まっていき、嬉しいような、辛いような。ただまた11月には再訪するので、更に学びを深めていこう、そう思いながら、翌日成田行きのフライトに静かに乗り込んだ。

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