ある日の台北日記2018その1(7)日帰り埔里&歴史談義

6月1日(金)
埔里日帰り

今朝は埔里に残した荷物を引き取りに行くため、朝7時のバス、国光号に乗った。もう慣れたこのバスだが、これが最後かもしれないと思うと、ちょっと切ない。だがバスは私の思いなど気にも留めずに、極めて順調に走っていく。そして何と10時前には埔里のバスターミナルに入ってしまった。

 

今日は恒例の黄先生のサロンの日だが、少し時間が余ってしまったので、いつもの店でクラブサンドイッチを頬張ることにした。店に行くと、『久しぶり』という声すらなく、ごく普通の対応だった。クラブサンドもいつもと同様の美味さ。何ら変わらない日常がそこにあった。結局埔里から転居したことを言えずに立ち去る。

 

取り敢えず元宿泊先に立ち寄り、荷物を取りに来たことを告げたが、こちらも特に反応なし。午後2時頃取りに来ると言い残して立ち去る。横でいつものようにIさん夫妻が車で待っていてくれ、黄先生のサロンに向かう。サロンには我々とYさんが来られただけで、和やかに世間話をする。

 

11時半になるとこのメンバーで食事に出かける。私の送別会をしてくれるというので、何とも有り難い。とても送別してもらう程、埔里にはいなかったし、埔里の住人と言う感じはなかったはずなので、恐縮だがとても嬉しい。食事はホテルのビュッフェで、どんどん食べてしまい、腹が膨れた。

 

さて、午後はお世話になった図書館にでも挨拶に行こうと思ってデザートを食べていると、急に携帯が鳴る。何と葉さんからで、『急に用事が出来て出掛けるから、荷物をすぐに取りに来てほしい』というのだ。最後までこんなものだな、やはり。こちらが迷惑をかけているので、それを了承し、Iさんに送ってもらう。

 

荷物は持ち切れず、一部不要なものは残してしまった。1年半、その内の何か月かを過ごしただけなのに、十分に荷物が増えている。何とか持ち出し、大きな荷物を抱えてバスターミナルへ向かう。もう寄り道は出来ないが、予約したチケットは午後3時だ。聞いてみるとちょうど1時半のバスが来ており、空きがあるので乗ってよいという。

 

実にあっけなく埔里訪問は終了してしまい、3時間後にはきっちり台北についてしまった。大きな荷物を抱えてきたせいか、少し疲労感を覚え、横になる。夜はTさん、Sさんと西門の方で食事をした。海鮮料理屋だったが、この付近夜遅くまでやっているところがあまりないと聞いてちょっと驚いた。私の埔里からの戻りを心配して、午後8時スタートにしてもらったのだが、ちょっと申し訳なかった。それにしても夜、西門から川の方へ歩いていくのは暗い。

 

6月2日(土)
歴史談義の果てに

そろそろ今回の台湾滞在も終わりに近づいている。週末は動かないことをモットーにしているので、ごく近所の小楊の家を訪ねることにした。本当に徒歩10分以内にこんな人がいるのは望ましい。3月に劇的に再会したばかりだったが、また行ってみたくなる家なのである。

 

ここにはいいお茶が沢山あり、いい雰囲気の中で茶が飲める。それに前回発見したことだが、小楊夫妻は茶の歴史にも造詣が深い。ネットに書いてあるような歴史ではなく、意外な歴史を語ってくれたので、その辺も聞いて見たくなった。ただ今日はどの急須が良いか、という話が先行する。私は急須にはあまり興味はないが、それでもその形に惚れてしまう物もある。

 

私が台湾鉄観音茶の歴史について聞いた時だった。木柵の張家、鉄観音を持ち込んだと言われているが、小楊は『あそこの4代目は友達だから紹介してもいい』と言いながら、『だが台湾鉄観音はあそこで始まった訳ではない』ともいう。思わず、私の口癖である『それ本当か?』が飛び出した時、『俺が嘘を言うはずがないだろう』というので、『それならその歴史が書かれている文献などを教えて欲しい』と言ってしまった。

 

彼は本当に不機嫌になってしまい、会話が途絶えた。確かにその辺に書かれている歴史なら、既に発掘され、語られている可能性がある。彼が話している歴史には証拠はない、というものも多いのだが、その歴史のヒントを聞きたくて来ているのに、とんだ発言をしてしまった。

 

私はもう何年も歴史調査をしているのに、どうもやり方が上手くないな、と感じてしまうことが多い。肝心な歴史は言い伝えなどの中に潜んでいる可能性があるというのに。後悔先に立たず、彼のくれたヒントを、この先自分で探していくことにしよう。何となく気まずい雰囲気の中で帰宅する。次回ここに来る時は何らかの報告ができるようにしよう。

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