ある日の埔里日記2017その4(2)大稲埕で

9月8日(金)
大稲埕へ

今日は埔里に戻ることにしていたが、午前中は大稲埕に行ってみることにした。昨日坪林の博物館で見た包種茶を輸出した時の茶箱、そこに『有記』と書かれていたので、何かわかるかもしれないと思い、有記を訪ねたのだ。確か2年程前、Bさんに連れられて一度行ったことがあったので、その記憶を頼りに歩いて見る。

 

茶葉公園という石碑があるのでその場所はすぐに分かった。ただまだ朝の9時過ぎ。店は開いているかと覗いてみると、開いていた。中に入ったが、焙煎が行われている雰囲気はない。前回はここで先代の奥さんが中を案内してくれたのだが、今日はいないだろうな。何気なく聞いてみると、5代目という若旦那が登場した。まだ31歳だそうだ。

 

早々中を見せてもらう。現在は作業をしていないが、この付近では唯一現役の茶工場だ。焙煎も独特の方法で行う。陰火と言って直接火で焙るのではなく、火をいったん消した残りの熱で焙るらしい。非常にまろやかな仕上がりになるという。この店は100年以上前に創業したというが、台湾の技法なのだろうか。実はこの有記は1947年に3代目がバンコックから移ってきたというから驚いた。実際の許可書もその年号になっている。なぜだろうか。日本統治時代も茶工場は大稲埕にあったというから、ここからバンコックにも輸出していたのだろう。

 

5代目に教えてもらった博物館にも行ってみた。新芳春という老舗の茶行だったが、光復後ほどなくして、茶業は辞めてしまったらしい。最近の旧懐ブームでここを博物館にしたという。一部はご先祖様が残した王家の資産の公開であり、茶業の部分はそれほど多くはない。ただ非常に立派なテースティング台が2階に置かれており、目を惹いた。昔は相当勢いのある茶荘だったのだろう。奥には茶工場も併設されており、往時の名残は感じた。

 

実は大稲埕と言えば、買弁として有名な李春生と包種茶の関係を知りたいと思っていたが、その資料はほとんど見当たらない。ここでも書籍を販売しており、李春生関連もあったが、どれも後期の思想物か日本へ旅した時の日記などで、肝心の茶に関する記述が少ないのは解せない。研究者は必ずいるはずだが、どうなんだろうか。取り敢えず日本旅行記を購入して読んでみることにした。

 

そう思っていると自然と足は大稲埕に向かう。入口の写真を撮っただけですぐ細い道に入り、李春生ゆかりの教会を眺める。迪化街など観光地化が進んだ道とは違い、人は殆どいないのがよい。迪化街は昔薬屋や乾物屋が多かったが、今では土産物屋やカフェなどに代わり、あまり面白くない。

 

建成国民中学と書かれた立派な建物を通り過ぎた。ここは今では中学ではなく、博物館か美術館になっているようだ。この付近の学校はやはり皆由緒正しい、立派なところが多い。この付近が往時の台北の中心だったことがよくわかる。トイレを借りようとしたがなかったので急いで宿へ戻る。

 

歩いて宿まで帰り、荷物を引き出し、バスターミナルへ向かう。国光号に乗れば3時間半後にはきちんと埔里についてしまう。台湾の高速道路は本当に車が少なくてよい。鍵を受け取り3か月ぶりに部屋に入る。さすがにまだ9月初旬で温かい。この部屋は西日がきついので暑く感じる。この部屋でクーラーなしで寝てみたが、正直少し寝苦しい。特に夜の一定時間、風が止まるのが分る。

 

9月11日(月)
鉄観音茶を味わう

土日は基本的の外には出ない。特に人が多いのでバスに乗るなどはしない。少し暑いが部屋に籠って原稿などを書いて過ごす。そして月曜日、また動き出す。昼ご飯を食べた後、珍しく魚池の劉さんのところへ向かう。確か会うのは1年半ぶりになる。魚池までバスに乗り、そこまで迎えに来てもらった。

 

茶工場では茶作りが行われていた。そこで魚池出身で現在台北の雑誌社で働く謝さんと会った。彼は趣味で茶を作っており、時々実家に戻っては劉さんの指導を受けているという。劉さんはなかなか怖い先生のようで、一生懸命茶を作り、汗を流していた。因みに彼の勤める会社は最近新しい雑誌を創刊したばかり。この時代に新しい雑誌って、ちょっと興味が沸く。

 

劉さんは紅茶も作っているが、雲南に行ったりして、その収蔵品が増えていた。プーアル茶、白茶、などを買い求め、自ら餅にしている。よいお茶はすぐに売らず保存する。彼の動きを見ていると、この付近の紅茶の将来性が見えてくるようだ。今回は高山鉄観音茶をじっくり味わう。中国安渓が発祥の鉄観音だが、今や見る影もない。台湾の鉄観音は木柵だけではない。最近時々見かけるが意外とうまい。帰りは劉さんの車で埔里まで送ってもらう。

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