ある日の埔里日記2017(19)28年ぶりの霧社にて

2月5日(日)
28年ぶりの霧社にて

ずっと雨が降らない埔里。今日も出掛けることにした。もうすぐ一旦埔里を離れるので、出来ることはやっておこうと考えた。ついに決意して霧社に上る。これまで梨山へ行く際など、霧社を何度か通ることはあったが、ここで降りることはなかった。そういえば、ここで一度食事をしたことはあったが、それも自分の意志ではなかった。敢えて避けて来たとも言えるだろう。

霧社に行ったのは一度切り。あれは1989年の冬だったと思う。当時台北に駐在していた私は、業界関係者の1泊2日のゴルフ旅行に参加した。台中でラウンドした後、幹事が連れて行ったのは埔里。彼は蝶々の収集が趣味で、よくこの付近に来ていたらしい。そして山道を登り、廬山温泉で1泊することになっていた。霧社を通った時、バスは急に停まり、幹事は我々を鳥居のようなものがあるところへ案内した。そこが霧社事件の首謀者、モーナルーダオを祭っていた、と言われても、誰一人ぴんと来なかった。

その当時、霧社事件は教科書にもなく、台湾在住者でも知る者は殆どなかったのだ。というか、戒厳令解除直後の台湾は、今とは全く違う雰囲気があった。日本語はかなり通じたが、日本統治時代の話などはこそこそ話す人もいた。あれだけの人が話し、NHKの衛星放送さえみられる台湾で、日本語は公には禁止されていた。2・28事件なども全く伏せられた歴史だった。

そして廬山温泉で泊まった宿。そこのオーナーのお母さんが出てきて、ゆっくりとした日本語で淡々と霧社事件のことを語り始めた時は、正直呆然となってしまった。彼女は当時日本人として教育を受けた模範生で警察官になっていた、花岡二郎の妻、高山初子さんだったのだ。1930年、18歳だった。宿のオーナーは事件の時、彼女のお腹の中におり、それで皆が彼女を逃がしたと。はっきりした日本語なのに、頭が混乱して、心が震えてしまう内容だった。あれ以来、何も知らなかった自分を大いに恥じ、そして霧社には近づかなくなっていた。

バスは容赦なく山道を上がり、1時間で霧社に着いた。ガイドブックを見て、まずは日本人墓地があった場所を探したが、全く見つからない。徳龍宮があったので、そこに上ってみると、下の碧湖、いい風景が見られた。ここは日本時代、霧が丘神社と呼ばれたらしい。それからセブンイレブンの前を通り過ぎ、少し下る。

 

モーナルーダオの像がそこにあった。28年前に来た場所はここだった。だが、随分ときれいになっている。抗日英雄の文字や『莫那魯道烈士之墓』という漢字に少し違和感がある。日本も台湾もずっと秘してきたこの事件、1990年頃から注目されるようになり、英雄として扱われている。そして当時はタイヤル族と言われていた彼らが、2008年にセデック族と呼ばれるようになってもいた。それは映画の題名で知ってはいた。

 

更に下っていく。台湾電力の分社がある場所が、事件の舞台となった公学校の跡地だ。ここで運動会当日、140名近くの日本人が殺されている。企業の敷地だから立ち入りはできない。外に事件の概要を伝えるプレートがあるだけだ。今は何事もなかったかのように穏やかな午後なのだ。

 

急に尿意を催してきた。元公学校の敷地の道の向こう側に建物が見え、トイレがあったので使わせてもらった。そして出てきて驚いた。ここが最初に探していた日本人墓地の跡だったのだ。これは何かに呼ばれていると感じざるを得ない。1950年代に道路工事のために受難者記念碑は撤去されたとある。今や台だけが僅かに見え、整備も全くされていない場所、カメラのシャッターを押すもなぜかうまく作動しない。こんなことがあるだろうか、いやあるのだ。

 

かなりの疲労を覚える。もうこれ以上、この地に留まることは難しい。ちょうどバス停があり、バスが来たので、それに乗り込み、埔里に戻った。今日のこの体験が何を意味するのかは分からないが、引き寄せられていく感覚は残っていた。その夜、それまで封印していた映画、セデックバレを英語版で見た。やはり違和感が残り、そして疲れが増した。

 

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