ある日の埔里日記2017(16)おじさんの山の茶畑

131日(火)
おじさんの山の茶畑

 

昨晩葉さんからメッセージが来た。『明日おじさんの家に行かないか?』、おじさんの家とは先日大晦日に伺った、山の中の静かな一軒家を指している。あの時、おじさんに『また是非来たい』と言ったところ、『昼間に来れば茶畑も見せてやろう』と言ってくれたのだが、まさかこんなに早く実現するとは思わなかった。

 

午前8時前に葉さんの車に乗った。『朝飯を食べよう』と連れていかれたのは、何と近くの大腸麺線屋。『ここのが一番うまいんだ』と言われて思わず頼んでしまう。好きなので、2食続けて食べても何の問題もない。確かに美味い。このお店はおばさんが一人でやっているようで、売り切れご免、午後は大体休みになっている。

 

そして郊外の道を行く。数日前に通ったばかりだが、夜と昼とでは、全く景色、雰囲気が違うので、初めてくるような感覚だ。寺など要所要所は覚えており、30分ぐらいで到着した。葉さんは用事があると言って帰っていった。私を送る為だけに来てくれたのは申し訳ない。『帰りは適当にして』と言われたが、まあ何とかなるだろう。

 

この家で作られたお茶を頂く。前回は大晦日の除夜の鐘を聞きながら、家の中で飲んだが、今回は天気も良く、屋根のある屋外で飲んだ。茶作りの時はここで生葉を干すのだろう。アヒルが三匹、平然と横を歩いて行く。この家の裏山にも檳榔樹に混ざって、茶樹が植わっていた。かなり古い木もある。冬枯れてはいたが、しっかりと根を張っている。

 

おじさんが『行こうかと』と車に乗る。お嬢ちゃんも付いていく。私も乗り込む。さて、山茶の茶畑に行くらしい。10分ほど離れたところで車は停まり、そこから少し山に分け入る。斜面が意外と急な場所で滑りやすい。なぜか水たまりもある。その先に、株ごとに古い茶樹が所々に植わっていた。

 

葉はかなり固く肉厚。低木ながら、幹はかなり太い。おじさんによれば、アッサム種もあるが、それより古い山茶もあるという。一体それはどこから来たのだろうか。いずれにしてもこの地域は日本統治時代に茶樹が沢山植わっており、茶業が盛んだったことを意味しているようだ。

 

因みにこの土地は、おじさんが外での仕事を辞めて山に戻った20年ぐらい前、誰も使っていなかったので知り合いから借り受けたらしい。昨今の紅茶ブームにより、突然脚光を浴びた形の山茶。本当のところは、どの時代にどんな品種があって、どこに植えられた、とはっきり分かればよいのだが、現在の商業的意味合いを加味すれば、地元民は知っていても言いづらいだろう。

 

昼に埔里の街に行くというので、おじさんの車で送ってもらった。おじさんは親戚の家の宴会に出るという。正月は各家持ち回りで毎日宴会があるという。何と私まで参加させてもらうことになる。おじさんは客家、ということで一族も皆客家の血を引いている。元々は新竹の方にいたが、戦時中に埔里郊外の山中に入ったらしい。その後徐々に山を下り、今では平地に住んでいる人の方が多い。

 

奥へ行くと長老たちが座っており、紹介を受ける。皆一様に突然やってきた日本人に興味を持った。次々に質問が飛んで来る。そして宴会が始まる。この家はロイヤルゼリーなどを作っており、その工場を開けて、テーブルを5つも並べて、その上にどっさりと料理を置く。料理は自分たちで作るのではなく、いわゆる仕出し屋を頼んでおり、この時期、どこの仕出し屋も大忙しらしい。各家ともメンツがあるので下手な物も出せず、立派なエビやら、肉やらが並ぶ。まあこれも正月の景気づけ。

 

食後、おじさんがそのロイヤルゼリーの工場を見に行くというので一緒に行く。山の少し途中に工場はあったが、管理人も正月休みでどこかへ行っており、中へ入ることはできなかった。帰りにおじさんの息子がやっているというバナナ畑を見た。昨年の豪雨の影響でバナナ価格は高騰して、この商売がうまくいっているらしい。息子2人はまじめで、頑張っており、おじさんも鼻が高い。

 

結局宿泊先まで送ってくれた。おじさんは実は葉さんの茶屋に来たことはなかったらしい。ちょうど良い機会だからと立ち寄ったという方が正しい。私としては助かった。おじさんは、お茶のシーズンまで台湾内を旅して暮らすと言っている。車に調理道具など、一式積み込めば、どこへでも車を停めて生きていけるというから面白い。お前も行くか、と聞かれたので、思わず行くと、と答えそうになったが、残念ながら、その時間的余裕は私にはなかった。

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