タイ北部、中部を旅する2019(11)泰緬鉄道に乗る

列車が発車するとすぐに昨日の橋が見え、そこを渡った。車掌がやって来てチケットを確認すると、冷たいコーラと水、それにお菓子を置いて行った。後ろの車両を見るとそれなりに人が乗っているので、なぜここだけ人がいないのか不思議だった。また車掌がやって来て、乗車記念証を渡される。こういうのが欲しい人もいるのだろうか。

 

列車の窓に吹き込む風は気持ちがよい。だがなんといっても退屈ではある。2015年にSさんとNさんと行ったカンチャナブリを思い出していた。あの時はトンブリから出たが、工事中でカンチャナブリより前の駅で降ろされ、振替輸送されてしまったのだ。ただその駅に『泰緬鉄道の起点』という石碑があったことはよく覚えている。あの時から、いつかはここを訪れ、泰緬鉄道に乗ろうとは思っていた。例え既にミャンマーまで繋がっていなくても、また往時の線路がなかったとしても。

 

そんなことを考えていると、景色が時々変わっており、途中いくつかの撮影スポットはあった。それでも基本的にずっと田舎の田園風景が続いて行くだけだ。多くの乗客はトレッキングや宿泊の目的で乗っており、途中で降りていく者もいて、私のようなものは少ない。結局2時間ぐらい乗って終点に着いた。

 

だが特にやることもなく、次の列車までは3時間ぐらい間があったので、今来た列車に飛び乗って折り返し戻ることにした。急いでチケット売り場に並び、今度は100バーツを払った。特に席は変わらず、乗っている人も多くはないので、特別列車に乗る意味は全くなかったことになってしまった。そして何事もなかったように2時間かけて同じコースもただただ戻った。

 

 

カンチャナブリ駅に着くと、まずは腹が減ったので、その辺で炒飯を食べた。それからさっきの博物館へ行き、展示の続きを見た。そして無料のコーヒーを飲んで休む。窓から見ると共同墓地の横には中国人墓地もみえた。そこへ行ってみるとこちらは戦後に亡くなった人の墓が中心だった。それからまた歩き出す。

 

立派なお寺があったので入ろうとしたが、犬に吠えられてやめにした。タイの寺は犬が鬼門だ。本気で噛まれたら面倒だ。更に進んでいくと、古い町並みが出てきた。ここはなかなか風情があり、一部には表示もされていて、100年以上前のお金持ちの立派な家が並び、栄えた歴史などが垣間見えた。相当古い建物が残っており、華人が活躍した雰囲気もあった。その端にはお城のようなところが見える。

 

その先に、戦争博物館があった。日本人が資金を出して作ったという。川沿いに建てられていたが、見学している人はいなかった。恐らく戦争にかかわった人がある思いで作ったのだろうが、日本人は戦争の歴史を見ようとしない人が多いので、風化してしまうのではないかと危惧される。これはアジア各地で見られる光景だ。

 

相当消耗してしまったが、宿に戻る交通手段を見つけられなかった。夕方夜市の準備をしているところなどもあるが、まだ始まってもいない。何とか昨日到着したバスターミナルまで行き、またバイタクのお世話になって宿へ戻った。疲れ果ててしまい、何をする気力も起こらなかった。夜遅く、またあのレストランへ行き、今度はパスタを食べたが、味はイマイチだった。

 

7月21日(日)
サンクラブリーへ

ゆっくり起きて朝食を食べると、宿をチェックアウトした。結局眺めの良いプールに入ることもなかった。フロントでトゥクトゥクを呼んでもらい、またバスターミナルへ向かう。ロットゥに席があり、国境の街サンクラブリー行きに何とか乗れた。9時半に出て、比較的平坦な道を走る。

 

2時間ぐらい行ったところで、休憩が入る。ここで多くの人が降りていく。近くに宿泊施設でもあるのだろうか。ソンテウが迎えに来ている。我々はそこから山道を1時間ほど進んだ。そしてついにサンクラブリーに着いた。まずは腹ごしらえとばかりに、麺を食べたがうまかった。しかもそこの女性が流ちょうな英語を話したので驚いた。タイ人は基本的に英語を話さないが、やはりここは国境だからだろうか。

 

宿を決めるにあたり、ここでGoogle Mapを使ってみた。Agodaなどはここから1㎞以上離れた宿をいくつか紹介しているが、私はこの付近に泊まりたかった。ちょうどよい宿はないか。Googleで引っかかったその宿は300mほど歩いたバスターミナルの横にあった。とてもきれいで、1階がカフェで、2階の数部屋を貸していた。民宿というのだろうか。経営者の女性は英語を話したのでここに決めた。ただ部屋の掃除が終わっていなかったので、着替えだけをして、早々に外へ出た。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です