きれいな宿
今日の宿は、皆さんから勧められたあひる屋へ。ゲストハウスなのに、とてもきれいだといい、評判が良い。美麗島駅からも近くて便利。ビルの5階に行くと、確かに改装したのか、ピッカピカ。入口でスリッパに履き替える。スタッフもフレンドリ―でニコニコしている。日本人女性も手伝っていた。部屋数もかなりあるようで、一番端の8人部屋にベッドを確保した。
リビングもかなり広いので、そこでネットを繋ぐとサクサク。無料の茶を飲み、かなり寛げる。トイレとシャワーの数も十分にあり、トイレの近い老人には嬉しい。オーナーの一人は日本人だというが、ちょうど日本へ行っており、会うことは出来なかった。1泊、700元はドミトリーとしては若干高いのかもしれないが、きれい好きの日本人に会うコンセプトかと思う。因みに同じバニラ航空に乗っていた日本人の若者達も数人チェックインしていた。
因みに朝が早かったので夜は早く寝たいと思ったが、同室の香港人の若者がずっと話をしており、ちょっとうるさい。おまけにクーラーをガンガンかける(香港スタイル)ので、こちらは風邪をひくのではないかとビクビク。既にいい年の私は、もはやドミトリーで若者と一緒に寝るのは無理なのかもしれない、と悟る。
夜市にて
宿のスタッフに両替場所を聞くと、もう銀行は閉まっているので、銀楼へ行け、という。銀楼、何とも懐かしい響き。昔台湾では銀行の手続きが面倒で時間がかかることもあり、両替は普通、宝石などを扱う銀楼へ行っていた。20年前の台北では、隠し扉の向こうで両替、などという映画まがいのところまであった。そして両替レートは勿論銀行より良かった。
その銀楼は小さな市場の中にあった。教えられた所へ行くと、何やらやる気のなさそうなおばさんが欠伸をしていた。両替レートを聞くと、何と高雄空港の銀行レートより悪かった。え、なぜ?と聞いても、今日はこのレートだと、交渉の余地はない。今や両替も銀行の方が良いということだろうか。今日はなんとか持ち金で暮らせそうなので、そのまま失礼した。
美麗島駅の夜のライトアップも素晴らしかった。何でこんなにきれいなの?宿のすぐ近くには、これも懐かしい六合夜市があった。私が初めて台湾を訪れ、高雄に来たのは、今から31年前の1984年。あの頃の台湾は、何となくのんびりしていて、それでもなぜかちょっと猥雑で、何とも言えない独特な雰囲気を持っていた。特に高雄は、その猥雑感がひどく、皆が台湾語しか使わず、困ったことをよく覚えている。高雄牛乳大王という店名で一世を風靡した、パパイヤミルクを飲んだのが、この夜市だったように思うが、どうだろうか。
台湾は夜市ブーム。どこの街にも夜市があり、観光客も含めて、大勢の人が行き交っている。六合夜市はまだ時間が早いせいか、人通りは少なかったが、暗くなるにつれ、お客が増えてくる。『日薬本舗博物館』という名のドラッグストアーが目を引く。夜市というより、観光スポットというのが正しい。
ここに来ているお客の何割かは、中国からの観光客だ、とすぐに分かる。先ほどの薬も、台湾人が買うのではなく、中国人が買うのではないか、と思ってしまう。日本、とうたっているのが如何にも怪しい。屋台ではパパイヤミルクもある。海鮮粥や蚵仔煎(牡蠣のオムレツ)など、食べたい物はいくらでもある。ただ値段は30年前の何倍だろうか。最近また値上がりしたかな。
あちこちで、台湾国語ではない、普通話が聞こえてきて、ちょっと興ざめ。中には屋台の爺さんがあからさまに大陸人を軽蔑して、素っ気いない対応をしていたりする。お客に来てもらわないと商売は成り立たないが、中国人は嫌だ。この辺が現在台湾の心理状態だろうか。
私は大好きな魚羹を食べるために屋台に座った。ここではできるだけ中国語を使うのを止めているので、おじさんに身振りで注文した。如何にも日本人観光客だよ、という素振りで頭を下げたりもする。何故ならここで中国人に間違えられてよいことは一つもないからだ。
だが、席には先におばさんが二人座っており、『この麺、どうやって食べるの?』などと、私を地元民扱いして聞いてくるから、敵わない。折角中国語が出来ない振りをしていたのに、おばさん攻撃には成すすべがない。『おじさんに聞け』というと、『何よ、ケチ』と言って不機嫌そうだった。おじさんに50元を払うと、笑っていた。彼には台湾人と日本人の区別は当然つくのである。
1972年頃台中、高雄、台南を旅行した記憶があります。台湾国際空港は台北市内の松山でした。国内線は信頼出来ないので当時人気のあった台湾国鉄の特急「観光号」を利用、全ては日本国鉄そのままでした。台北は国民党の首都でしたが、南に行くほど日本統治時代の色が濃くなりました。高雄には日本食堂街がありました。
台湾最古の民営航空、復興航空、現在のTransAsia airline,は1951年からデハビランド製の小型機で国内線を営業していて、私の勤務していた米国の補助免許航空(今のLCCの走り)USOA,US Overseas Airline,の台湾営業代理店でした。当時台湾のフラグ・キャリアは中国民航(Civil Air Transport,CAT)で、台南の台湾米国合弁で米軍と業務契約のあった当時極東最大の飛行機修理整備会社と共に、後に私が勤務してラオス代理戦争をやったCIAの航空会社Air Americaと兄弟会社の関係でした。Air Americaの事務管理業務はCATが代行、CATのパイロットはAir Americaから出向、Air Americaの資産は飛行機から紙一枚まで台南の会社のもので台湾籍と言う変則組織でした。