九州で茶旅2014(4)福岡 八女茶の歴史と将来

霊厳寺

それから黒木町にある霊厳寺を訪ねる。ここが八女茶発祥の地であるからだ。因みに黒木町は女優、黒木瞳の出身地だそうだ。霊厳寺は応永13年(1406年)に明の留学より帰朝した出羽の学僧周瑞禅師が、教えを広めるため各地を巡り歩いていた時にここを訪れ、かつて修行した蘇州霊厳寺の景観によく似ていることから、禅寺を創建したという。

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同時に明より茶の実を持ち帰り、鹿子尾村庄屋の松尾太郎五朗久家に種子を与え、製茶の技法を伝授したことが八女茶の始まりと言われている。松尾家は現在も茶作りをしており、34代目の当主が継いでいるというが、当時の製法である釜炒り茶は今では作っておらず、蒸し煎茶のみの製造だとか。時代が変われば商品も変化するということか。

 

寺に入り、山道に踏み込むと、奇岩が並んでいることころがある。あまりにも急な坂道なので途中で引き返す。まるで修行だ。道沿いに小さな仏像が置かれている。なかなか面白い風景だ。本堂近くには『八女茶発祥の地』の碑と周瑞禅師の像が置かれている。因みに日本の茶の発祥は1192年に栄西が宋から持ち帰った茶種を福岡県と佐賀県の県境にそびえる背振山に播きその飲用法を伝えていったのが始まりと地元では言っているが、異論もあり、確たる証拠はないようだ。

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境内には古い茶の木も保存されている。当日は祝日だったが、ここを訪れる人も殆どなく、ちょっと寂しい気分になる。Oさんの車でJR羽犬塚駅前のホテルへ送ってもらう。小雨が振り出し、肌寒い。

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八女茶の将来

夕方、羽犬塚駅へ行ってみる。看板があり、羽犬の由来が掛かれている。2つの説があったが、どちらも豊臣秀吉の九州遠征に絡んだもので、司馬遼太郎が言う、馬から訛った話などどこにも出て来ない。数年前まで犬の像があったらしいが、あまりにもグロテスク?なので市民の反対で撤去されたとの話も聞いた。この犬の伝説、果たして本当のところはどうなんだろうか。興味深いがこれ以上は進めない。

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夜はこれもFさんのご紹介で、県職員のNさんとお会いした。ホテルで待ち合わせ、近くの居酒屋に入るとNさんは直ぐに、『氷持ってきて』という。何で氷、と思っていると、何とバッグから透明のポットを取り出し、そこに玉露を入れ、更に氷を足した。『1時間半ぐらい経つと飲み頃になるので、それまでビールでも飲んで食べていましょう』という。これには驚いた。

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Nさんは若い頃からお茶関係者。中国やインド、などアジアの茶畑にも足を運んでおり、知己も多く、アジアの茶事情にも詳しい。ここでアジアの茶畑の話になるとは思っていなかったので驚く。もうすぐ定年なのでアジアの茶畑を巡りたい、とも言うが、どうやら状況はそれを許さないようだ。この知識は八女にとって必要だろう。

 

Nさんは言う。『八女茶は全国の茶葉生産量の僅か3%しかない。静岡や宇治に張り合う訳にはいかない。そして八女の過疎化、茶農家の廃業は避けられない』と。だがそれを嘆いても仕方がない。『高級茶への転換、伝統的な玉露の生産』が重要、既に八女の高級玉露は日本の品評会で13年連続(昨年を除く)日本一になっている。

 

静岡とタッグを組むことも考える。どうしたら飲んでもらえるのか、『玉露と玄米を混ぜる(顧客ニーズに合わせる)』など試行を開始。ヨーロッパでも試しに売り始めている。台湾などアジア市場の開拓も模索している。日本の茶産地にもこのようは発想が出てきている。特に顧客ニーズは重要だと思うが、どうのようにしてニーズを掴み、売り込むのか。果たして成果は出るだろうか。

 

尚現在の和紅茶は中途半端だ、との指摘もあった。多くの農家が緑茶種でまず緑茶を作り、その後紅茶を作るやり方をしているが、これでは本当に良い紅茶は出来ない。紅茶専用品種から紅茶だけを作るべきだが、生活が懸かっている農家はなかなか踏み出せないという。

 

氷を入れて1時間以上ゆっくり出すパフォーマンスは面白かった。アミノ酸がじっくりと絞り出され、かなり濃厚な味わいになっていた。その後は白湯、熱湯と順に淹れ、数回楽しんだ。伝統製法の高級玉露にはこのような仕掛けも必要だろう。特に外国人が大喜びすることは間違いない。日本の茶葉茶道だけではない、というところを見せる必要もある。

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ホテルに戻り、すぐにベッドに入ったが、ほろ酔い気分と濃厚なアミノ酸の融合でちょっと刺激が強すぎて、眠りが浅くなる。

 

4 thoughts on “九州で茶旅2014(4)福岡 八女茶の歴史と将来

  1. 背振山の名は小学生の頃から覚えています。昭和10年代ヨーロッパの新聞社がスポンサーで、欧亜連絡飛行の企画があり多くの外人パイロットがトライしたが全部中近東や東南アジアで故障や事故で挫折、最後にフランス人のジャピーが上海から福岡に到着寸前この山に衝突して足を骨折したエピソードがあります。その後日本の神風号が一発で羽田からロンドンまで飛びました。

  2. 先のコメントに記憶違いが有りました。神風号の出発地点は羽田でなくて立川でした。申し訳ありません。

  3. 先のコメントに記憶違いが有りました。神風号の出発地点は羽田でなくて立川でした。申し訳ありません。

  4. 先のコメントに記憶違いが有りました。神風号の出発地点は羽田でなくて立川でした。申し訳ありません。

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