関西散歩2025(6)関ヶ原スタンプラリー

岡山烽火場は高台にあり、登るのは少し辛いが、関ヶ原が良く見える。竹中半兵衛の息子重門も黒田長政と共にここに居た。そこから山道を歩き出す。トレッキングのようになっていく。雪が残る池のそばを抜け、道路の下をくぐると、そこには田畑が広がり、決戦地という碑が建っている。この碑の揮毫は太平洋戦争前の宇垣一成。

その先に島左近陣屋があり、笹尾山を登ると石田陣屋に着く。ここにだけ観光客がいたが、私のように歩きまわっている人間は一人もいない。ここも高台で上るのに苦労する。かなり疲労が溜まってきたので、休みながら周囲を見渡す。更に歩いていくと、あの敵中突破の島津義弘陣があり、薩摩まで帰り着かなかった人々を慰霊している。その脇でなぜかたぬき?を発見した。その先に開戦地の碑が建っており、小西行長陣がある。そこでトイレに入り、また歩き出す。

少し山間に宇喜多秀家陣を見付ける。この武将も悲劇の一人だろう。そこから川を渡り、かなりの坂を上って大谷吉継陣、墓などを見て回る。大谷の墓は福井でも見た記憶がある。ここに顕彰碑があったが、太平洋戦前に建てられており、国策感が強い。まあ、戦前の徳川の位置づけが見て取れる。こうして歩いていると、これまでドラマなどで目にしてきた地名が現れ、リアリティはかなりある。疲れを忘れて更に歩いてしまう。

線路を越えて、これより中山道。少し行くと脇坂安治陣があった。裏切ったのは小早川だけではなく、他に数名いたようだが、この脇坂は元々裏切るつもりで参戦していた。「お主もワルよの」という家康の声が聞こえてきそうだ。この功により脇坂家は江戸時代を全うしている。本当のワルは歴史にも残らないのか。

ついに松尾山のふもとに着いた。雪を頂いた伊吹山が良く見える。ここから徒歩2㎞の表示に思わず歩き出したが、これは悲惨だった。本当に険しい山道、平地とは全く違う。小早川隊はどうやってここを駆け下りて大谷隊に攻めかかったのだろうか。とにかく喘ぎ喘ぎ歩くも足が上がらない。本当に40分かかってとうとう小早川陣まで歩いたが、景色を見る余裕もなく、ただうなだれていた。

上ってきた山路をまた歩いて下る。疲れがピークで足が重い。しかし歩く以外に手がない。何とか下まで降りると、もう意地となって次を目指した。だが道に迷ってしまう。不破関を何とか通り過ぎ、福島、藤堂陣を泳ぐように過ぎていく。最後の本多忠勝陣に辿り着いたのは、歩き始めてからおよそ5時間が経過していた。単なる石碑巡りに5時間、駅のベンチにへたり込む。達成感があるような、ないような?

大垣で荷物を取り出し、名古屋まで行く。とにかく昼ごはんすら食べていなかったが、体調的に重たいものは受け付けない。名古屋駅では新幹線ホームに行く前、在来線ホームでいつも食べているきしめん屋に入ってみた。特に違いはなさそうだったが、午後4時でお客は少なく、目の前でイカを揚げてくれ、美味しく頂いた。目の前にお揚げもあったので追加して大満足。

脚ががくがくのまま、新幹線に乗り込む。ところが人身事故とかで到着が遅れるという。まあ急ぐ旅でもない、と心に余裕があると、意外と早く着くものだ。何だかまた腹が減り、新宿でもそば屋に入った。そして何とイカ天そばとお稲荷さんを頼んでしまう。もう頭のボケも相当なものだが、また辛うじて脚は動くことを証明できた。

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