《広州お茶散歩 2008》(2)

(5)日本人お茶屋

夕飯は街の東側に移動。中信広場の中にある東海海鮮酒家へ。このレストランは北京にもあり、先日行ったが、味が安定している。到着してみると何と丁度披露宴の真っ最中で一般客は別室に押し込められていた。Mちゃんの旦那、K君が仕事を終えて合流。何しろグルメのK君のこと、料理の選択は任せたと言いながら、何故か叉焼と豚のスペアリブをダブッてオーダーする私がいた。やはりお茶を飲み過ぎたのだろうか??

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溝Mがこの店を選択した理由は、彼女の事前調査でこの近くに日本人がお茶屋をやっていたからだ。時間は遅くても良い、ということで9時半過ぎに食事を終えて、そこを訪ねた。そのお店は何となくマンションの1室という感じ(実際はオフィスビルだとのこと)。入り口で守衛に咎められたのも、こんな遅くに店に来る客などいないと思ったからか、はたまた人相が悪かったからか??部屋に入ると所狭しとお茶が並んでいた。昨年末に引っ越したばかりとのこと、また当日は茶葉の入荷があったとのこと。嬉しいような環境である。湖南省の黒茶、千両花巻茶が棒状に立てかけられていたりする。

お店の名前はChinese Life Tea House。店長の大高さんは経歴を聞けば、若干27歳。元は中華料理のコックさん。帝国ホテルやホテルオークラから内定を貰っていたが、中華の本場広州を見に来た際、何と中国茶の魅力に取り付かれ、就職を取りやめて広州に住み始めたとか。

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その拘りは尋常ではなく、全ての茶葉を自らの足で産地から集めて来ている。全てが写真に収められ、説明がなされる。茶葉の産地にも色々と変化があることを教えられる。先程の岩茶、白鶏冠も栽培が大変で取れる量が減少。直ぐに品切れになるとか、安渓の本山茶や毛蟹という品種は既に鉄観音に取り込まれてしまい、後数年で無くなってしまうことなど。

また台湾茶を扱わない理由を『まだまだ大陸の勉強が足りない。こちらを極めてから次に進みたい。』と極めて謙虚、いや職人気質。北京と広州の違いについては『北京には茶芸館が多い。北京でお茶を飲むことは非日常空間、広州でお茶を飲むのはごく普通の日常。この違いは大きい。』と語る。まだ20代という彼が淡々と語る姿には既に大いなる貫禄がある。

因みにこのお店を訪れるのは日本人が多いが、中国人客も増えつつある。確かにパッケージや保存方法にも肌理が細かい。勿論メインは日本へのお茶の卸ではあるが。

気が付いたら、11時を回っていた。今日は朝5時半に起きたのだから、長い一日であった。体調が悪いのもすっかりよくなり??爽やかな夜風に吹かれてホテルに戻った。そういえば、この時間に半袖のポロシャツ1枚で歩いていたのは私ぐらい。やはり北京から来ると皮膚の強さが違うらしい。

1月12日(土)
(6)沙面
今回の宿泊先である沙面は、アヘン戦争後に租界地となった所謂小さな出島である。小さな橋を渡ると大きな木と洋風の建物が目に付き、その後はずっと洋館が並ぶ。広州市が保護しているのだろうが、かなりきれいに整備された観光スポットである。

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朝7時半、昨日の疲れもまるで無く散歩に出発。今日も良い天気。広州郊外は正直北京並みの空気の悪さだが、ここ沙面は空気も心持良い。20度を超える丁度良い気温が歩みを軽快にする。

いきなりホテルの斜め向かいに旧台湾銀行があり、その向こうには立派な教会も見える。更には鉄道車両を持ち込んだ目立つレストランがある。南に下ると河に面したオープンレストランもある。朝から大勢の人々がお茶を飲んでいる風景が羨ましい。旧日本領事館跡も未だに現役。公園には木々が茂り、体操する人々の姿も南国風。西に歩くと20年前の憧れのホテル、白天鵞が聳えている。タクシーでしか来たことがなかったが、昔はこんな素晴らしい風景が周りに存在するなど気が付かなかった。いや、きっと最近の整備できれいになったのだろう。

 

それにしても1860年代から建設された租界、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、日本など列強が挙って進出。第二次大戦開始後は日本の独壇場になっていただろう。ここから1941年12月に香港進駐が行われた。

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真ん中の道に戻ると横浜正金とHSBCの跡が並んでおり、勝利賓館というホテルもレトロな雰囲気を醸し出す。ここでは時間が止まっているような錯覚さえ覚える。公園で優雅に運動している人、観光バスで乗り付けてくる人、結婚の写真を撮るカップルなど、全てが絵になっている。

(7)飲茶
9時半に橋を渡り沙面を出る。六二三路という珍しい名前の道がある。なぜこんな名前が??1924年租界であった沙面でベトナム華僑がフランス人を殺すという事件が発生。これに対して英仏は中国人を蔑視するような規制を発動、怒った民衆は各地でストライキを起こし、10万人のデモに発展。英仏はこれを武力で鎮圧。国辱を記念するため沙基馬路から事件の起こった6月23日の数字を取って六二三路に変更しという。

この道の並びには未だにかなり古い大きな洋風の建物があり、薬材市場として使われている。尚この道を北に上がる道に清平街というその昔は広州一の食料市場があった。ここでは犬でも猫でも何でも売っており、食は広州にあり、を実践する場所として何度も見学に行ったものだ。2003年に起こったSARSの元凶として、この市場も全て取り壊されてしまった。

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上下九路と文昌路の角に広州酒家がある。1936年創業。この一角は観光用に綺麗に整備されており、朝から大勢の観光客で賑わう。広州酒家については、地元の庶民が多いらしい。入り口付近では何かを売っており、長い長い行列が出来ていた。今日は朝昼兼用で溝M、Mちゃん夫妻と食事をすることになっていた。早く行った者が行列に並ぶことにしていたが、私がその任に当たる。9時半にホテルを出て僅か10分ほどで到着してしまう。実に良いお散歩であった。

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お姐さんから番号の書かれた紙をもらったが、番号の呼び出しは広東語のみ。さすがに広東語の出来ない私でも数字ぐらいは分かるとたかを括っていると既に番号を飛ばされている。可笑しいと思い列を書き分け北京語で訪ねると何と見るところが違っていた??我々の番号は縁起の良い『99』。皆揃うと図ったようにご案内となる。ここは2階、3階もあるはずだが、何故か1階の順番を待つ。入ってみると確かに雰囲気が良い。2階では注文出来ずに自分で取る方式だとか。こちらは紙に印を付けて注文できる。

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お茶は適当に頼んで、溝Mが昨日買った茶葉を持参し、入れる。なかなか美味しい。お茶を入れる雰囲気がある。隣は何と朝からブランデー??を飲んでいる。一通り点心を食べた後、隣のおじさんが食べていた麺が美味しそうだったので思わず注文。スープを自分で掛けて食べるスタイルは香港を思い出すものがあり、懐かしい。今回は皆さんにご馳走になってしまったが、4人で100元は掛かっていない。

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ホテルに戻り、チェックアウト。タクシーが入ってこない場所にあるため、呼んでもらうと、なかなか来ない。ボーイが遠くまで探しに行ってくれたらしい。チップでも上げようと思ったが、そんな事は思いもよらないとばかりに行ってしまう。やはりここは中国であった。

 

 

 

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