懐かしのインドネシア散歩2013(3)チアトルの茶畑へ

4月28日(日)  チアトルへ

昨晩の夕食会で皆さんに『茶畑、茶畑』と騒いでいたところ、Tのおばさんの一人が、『明日連れて行ってあげよう』と言ってくれた。これは有難い、おばさんは普通話も出来るので、コミュニュケーションにも不自由はない。

朝ホテルで迎えの車を待っていたが、約束の7時を過ぎても一向にやって来ない。ホテル前の道に出てみて、その訳が分かる。何と大量の自転車が道を占拠している。サイクリングの一団だが、果てしなく続いて行く。先日日本のテレビでガールダインドネシア航空の社長が山梨に来て、サイクリングしている映像を見た。その時は、観光イベントだと思っていたが、本当にインドネシアはサイクリングブームなのだろうか。この圧倒的な自転車を見ては、頷かざるを得ない。ただ後で皆から話を聞くと『あれは労働組合が動員を掛けているだけ。一種の福利厚生』と言われ、ちょっと納得。いずれにしても、健康には良いかもしれないが、市民からは交通渋滞を理由に不評。

Eが漸くやって来た。次におばさんを拾っていざ出発。日曜日の朝、こんなに早く出て来たのには訳がある。ここバンドンは比較的涼しく過ごしやすいため、空気の悪いジャカルタから週末になると多くの人々がバンドンに避暑にやってくる。彼らは我々がこれから行くチアトルの火山などを見学するため、毎週末大渋滞が起こっている、とのこと。自転車の次は車の渋滞か。

山道を登ると道沿いにホテルやレストランが並んでいた。確かに観光地なのだ。幸いまだ渋滞はない。片道一車線の山道、渋滞すれば身動きできなくなる。1時間ちょっとでチアトル火山へ到着。この火山の火口、思っていたより迫力があり、また美しい。午前9時を過ぎて続々と観光客が詰めかけて来る。

火口に沿って土産物屋が並ぶ。何となく素朴な風景だ。馬に跨って喜ぶ観光客。朝からトウモロコシやお菓子を頬張る人々。山の人々が売りに来ている感じだが、中には台湾人が経営している土産物屋まであった。オジサンはきれいない国語で話す。『12年前にやって来て、現地の嫁さんを貰い、有機農業を始めたんだ。ここの暮らしはのんびりしていていいよ。漢字の看板出しておくと中国人や台湾人によく声を掛けられる。珍しいのが良いんだよ』。確かにのんびりとあくせくせずに暮らすなら、こんな所が良いかもしれない。最後にオジサンは『こんな所でも、地元の人とは色々とあるんだ。簡単ではないよ、田舎は』とつぶやいた。

ついに茶畑へ

そしてチアトルの火口から先ほど来た道とは別の道を降りていく。10分も走ると茶畑が見えてきた。これは規模が大きい。驚いた。私は茶畑を見学できればと上出来と考えていたが、おばさんがこの辺に茶工場があるはずだから探そうという。

茶工場は直ぐに見つかった。だが今日は日曜日、工場は当然休みだと思っていた。ところが不思議なことに茶摘みは休みだが、工場は動いているというではないか。更に工場見学も歓迎だと言われ、招き入れられる。工場のおじさんがガイドとして付いてくれた。工場はかなり大きい。いわゆる大量生産の紅茶工場。だだっ広い。機械化は進んでいるが老朽化も。茶葉を自動で運ぶ工夫などもなされていた。昨日摘まれた茶葉が大量に寝かされている。

おばさんの通訳で話を聞く。1942年にできた工場だとか。そうだとすると日本占領下なのだろうか。恐らくはオランダ時代に作られた工場を日本が接収したのかもしれない。現在従業員は1500人、これも多い。工場内は100人程度で、あとは茶葉を摘む担当だと。如何に茶畑が広いとはいえ、これは正直かなり効率が悪い。紅茶が主体だが、緑茶も生産している。後で見ると、何と『Sencha』と書かれたパッケージがあった。日本からも注文があり、蒸し器を日本から持ち込んで生産しているとのこと。『ジャワストレートティ』という名称の缶飲料の原料もここから来ているようだ。

事務所で試飲もさせてくれた。BOPを豪快に淹れてくれる。香りは控えめ、味は悪くはなかった。基本的に90%以上を輸出する。ティパックの原料などになるものが多いのだろう。またここにも芽だけで作ったというWhite Teaがあった。こちらは淡い中にもしっかりとした味わいがある。

工場を離れて茶畑に繰り出す。ここは斜面ではなく、ほぼ平らな場所に広大な茶葉が存在する。向こうの方に山並みが見える。密集した茶畑がずっと続いている。観光客用に馬が用意されている。子供たちが馬に乗ってはしゃいでいた。その昔、茶葉を運ぶのに馬を使ったのだろうか。

因みにインドネシアと言えばコーヒーが有名。バタビアコーヒーが世界を席巻した時期もあった。一般インドネシア人の飲料として、茶は定着せずにコーヒーが残ったと言われた。勿論他の植民地と同様に、一番低級のダストのみを飲んでいたのだろう。オランダ時代のインドネシアのお茶の歴史、興味深い。是非今後勉強してみたい。

お昼はおばさんが行きつけのレストランへ。インドネシアの伝統的な家をレストランにしている。庭もある。吹き抜けの風が心地よい。隣に魚の養殖場があり、山の中としては格別に新鮮な魚が味わえるという。この辺は華人の味覚にマッチしている。魚ベースのスープは最高だった。何度もお替りしてしまった。そして焼き魚。まるで日本を思い出す味。太古の時代、日本とインドネシアは海で繋がっていた、ということだろうか。茶旅+グルメ、大いに満足した。

バンドンスキで

ホテルに帰り、一休みした。Tはこれから休暇でバリ島に行くといい、分かれる。今回は本当に彼の世話になった。そして何より面白い旅ができた。感謝。

 

夜は昔仕事上で知り合ったAさんと再会した。Aさんは学生時代インドネシア語を学び、現在はこの地の銀行経営に携わっている。インドネシアでは希少な日本人だと言える。

 

プラガ通りのバンドンスキという店に出向いた。ホテルからはそう多くはないが、歩いていくとそれなりの距離があった。プラガ通りはバンドンではおしゃれというか、画廊などもあり、絵描きが道端で絵を描くなど、少し洋風な雰囲気が漂う。

 

バンドンスキ、という店名が面白い。タイスキと呼ばれる鍋にあやかって付けられたものだろうか。実際食事の内容はあのタイスキと同じだった。ワゴンに乗せられた具材から食べたいものを取り、鍋に放り込む。このシンプルさが良い。Aさんは焼酎を持参し、氷を貰って飲み始める。持ち込み可、それもよい。

 

最近日本ではインドネシアが注目されており、ビジネス視察も増えている。だが、マスコミ報道と実際とはかなりの開きがあり、インドネシアのビジネスはそう簡単ではない。またその報道は首都ジャカルタ中心で、バンドンなどは念頭にない。労働、教育、政策がない政府など、経済成長という言葉とは裏腹に問題は多い。それでもインドネシアには可能性を感じる。日本に戻るつもりはない。Aさんの言葉には重みがある。

 

午後6時から店が閉店になるまで焼酎を飲み続けた。久しぶりに再会ということもあるが、アジアという視点で語ることは楽しい。日本での狭い議論は実にむなしく思われた。

 

4月29日(月)  AAに嫌われる

バンドン最終日。Tもいなくなり、今朝は一人で朝食、そして一人で散歩。ホテルを出るとすぐ横にガンダムショップを発見。こんなところでオタク文化にぶつかるとは。そういう目で見てみると、この街には日本のアニメあり、ガールズファッションありと、日本的なサブカルが溢れていた。何故AKBの姉妹グループがジャカルタにできたのか、分かる気がした。

そして昨日も歩いたバンドンのメインストリートを歩く。目的はアジアアフリカ会議の会場に入ることだ。過去2回、入れずにいた。今日は休みでないことを確認していたので、午前10時頃、行ってみた。ところが、ドアは閉まっていた。理由は全くわからない。私同様ここを訪れた観光客も納得がいかないという顔をしたのが、その場に数人いた。しかし如何ともし難い。ご縁がなかったということで諦めて去る。

ジャカルタに行く前に両替しようとしたが、両替所が見つからない。どうせ銀行に行くなら、CITIバンクのカードで現金を下ろしてみようと思い、歩いてショッピングモールへ行く。そこの地下にCITIがあることを確認していたので、問題なくルピーをゲットできると考えていたが、甘かった。ATMにカードを入れてもエラーになってしまう。そこにいた職員も首を傾げる。これまた仕方なく去る。実は後で香港のCITIに行って確認したところ、香港の制度が変更されてATMカードを海外で使用する場合には、事前登録が必要となっていたが、それを知らなかっただけだった。

駅の付近へ行くと倉庫街が見えた。倉庫の壁にはなぜか上手にアニメが描かれていた。いったい誰が描いたのだろうか。それにしても上手い。そういえばAA会議場のすぐに近くには画廊があり、路上で絵描きが絵を描いていた。その雰囲気はヨーロッパをイメージさせる。そのような文化があったのだろうか。オランダの影響か。ここバンドンには大学も多くあり、バンドン工科大学など優秀な学校も多いと聞く。

列車でジャカルタへ

午後1時にホテルをチェックアウト、荷物を引いて駅に向かう。切符を買った時に入った場所は実は裏口だった。ホテルからもっと近い場所に正面玄関がある。駅にはオランダベーカリーなどもあり、小さいながらも悪くない。

出発の40分も前にホームへ入る。既に私が乗る列車はそこにあった。バンドン、ジャカルタ間を実質ノンストップで走る特急だったのだ。そして全席が一等席。外国人だから売られたチケットではなく、はなからこれしか席がなかった。ようやく納得。座り心地は悪くない。

列車に乗客が乗り込み、ほぼ満員で出発。外国人に見える人はほとんどおらず、インドネシア人ばかり。子供も乗っていた。座席は広く、非常に快適。窓からは山や畑の風景が過ぎていく。これはなかなか良い列車旅だ。確か茶畑も見えると聞いていたので、目を凝らしてみていたつもりだが、見付からなかった。

車内販売もやってくる。きれいなお姐さんが注文を取る。私は頼まなかったが、食事を頼んでいる人もいた。見ていると料理はなかなか出てこない。結局ジャカルタ到着30分ぐらい前に食べている人もいた。これは偶々だろうか。

列車は途中で停まることもなく、ジャカルタ近郊まで来た。ここまではゆったりしていたが、そこからは各駅のように停まり、人々が下りて行った。私は一つの勘違いをしていた。この列車はコタという駅まで行くと。ところが無情にもひとつ前のガンビル駅で全員が下りた。私も下ろされた。チケットをよく見るとガンビルの文字が見えた。しまった。

さて困った。コタ駅からホテルの行き方を調べていたが、この駅がどこにあるのかすらわからない。そうか、各停に乗ってもう一駅行こうとしたが、駅員は外へ出てバスに乗れという。仕方なくバス停を探す。バス停はよくわからなかった。そこへちょうどタクシーが来たので手を上げると停まる。住所を見せて何とか乗り込む。夕方6時前の退勤ラッシュを予想したが、案外スピードを出していたがかなり走った。日が暮れていく。そして運転手は場所が分からないと言い出す。これは料金を割り増しする作戦か。仕草を見るとそうでもなさそうだ。さてまた困る。運転手も懸命に探す。コタ駅を通過して大体の位置をつかんだが、それからも分かり難い。ようやく見つけたそのホテルはかなり古びた街には場違いな40階建て。不思議なところだった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です