懐かしのインドネシア散歩2013(2)華人の苦悩

4月27日(土)  漢字が無い街

翌朝、Tと朝食を食べる。Tは昨晩従弟のEと相談してくれたが、Eは土曜日の今日も忙しく、また茶畑の情報もあまりなく、進展はなかった。『今晩バンドンの親族が集まる予定だから、そこでなんか出て来るでしょう』というT。そう、そんなものだ。

二人でバンドン市内見学に行く。先ずはチャイナタウンを探そうと思ったが、Eからも『バンドンにはチャイナタウンはない。華人は点在して暮らしている』と聞いていたので、ホテルの近所を歩いて見ると、『華人菜館』と漢字で書かれたレストランがあった。午前10時でお客はいなかった。店員に普通話で話し掛けたが、全く反応しない。カウンターの向こうにいた60代の華人と思われる男性に話し掛けると流暢な普通話が返ってきた。

『インドネシアはスハルト時代に中国語禁止、華人学校も閉鎖された。今の30-50代の華人は基本的に普通話は出来ないよ』と簡単に説明してくれた。2000年以降、華人学校も再開され、漢字の看板を出すことも可能となったが、スハルト時代の弾圧の後遺症か、現地化が非常に進んだせいか、未だに中国語には抵抗があるという。これがインドネシアの華人史だ。その後街を歩いて見てが、本当に漢字はほとんど見当たらず、小さな看板が出ていても普通話が出来る人は限られていた。因みにレストランの味もかなり現地化していると、ここのオーナーは述べている。

昨日見付からなかった駅へ行く。実は反対方向に歩いてしまっただけで、駅はホテルから歩いて10分も掛からなかった。古びた小さな駅。何となく好感が持てた。『ジャカルタへ行く時は電車で行こう』と決め、明後日の切符を買う。紙を渡され、氏名など必要事項を書き込む。窓口では英語も通じて問題はなかったが、何故か一等車しか売ってくれなかった。6万p。これは外国人だからだろうか?

バンドンと言えば1955年、周恩来、ネルー、スカルノなど第三世界の盟主を集めたバンドン会議が開かれた場所。歴史の教科書を思い出し、その会場へも行ってみたくなった。市内と言っても大きくはない通りを歩いて行くと、ようやく会場が見付かったが、何と今日はイベントが開かれており、一般公開はされていなかった。残念。

巨大ショッピングモール

Tが言う。『確かバンドンには大きなショッピングモールがあるはずだ。そこには日本企業も出店している』と。行ってみることにした。だが場所は分からない。TがEに電話して、場所を聞き、タクシーに乗ってみた。運転手は英語は出来ないが、意味は通じたようだ。狭いバンドンなのに、何処をどう走っているのかさっぱり分からない。誤魔化されて遠回りされているようにも思えたが、どうやらこの街は一方通行が多いようで、イメージと反対方向へ行くこともある。その内、渋滞にはまる。バンドンでも渋滞か。なかなか進まない。理由は道が片道一車線で、多くの車がショッピングモールへ入るために並んでいたからだと分かったのはかなり時間が経ってからだった。

ショッピングモールの規模はかなり大きかった。建物前の広場ではイベントが開かれ、土曜日ということもあってか、人だかりが凄い。お客の層も若者や子供連れが多く、非常に活気がある。レストランも沢山あり、どこも満員の盛況。比較的空いているシンガポール系の麺屋に入ったが、『XX麺、1つ』という頼み方ではなく、『麺はこれ、具はこれ』と全て一つずつオーダーする方式に戸惑う。恐らくは街中と比較して料金が高いため、細かい価格設定をしたのだろうが、店員は片言の英語しか出来ず、コミュニケーションに苦労した。

このモールにはSogoとMujiが入居していた。Sogoはあくまでもブランドを借りているだけで日本企業ではないだろう。高級品を売るデパートのようになっていたが、お客は多くはなかった。一方無印良品が出て来ていたのは意外ではなかった。トルコのイスタンブールでも中国の田舎都市でも、今や無印を見ることは多い。無印の出店戦略はどのように決められているのだろうか。従来の日本企業とは明らかに違う何かがある。香港系などの動向を見ながら決めているように見えて、頼もしい。ただ殆ど全てを日本から持ち込み、日本より高い値段で売る戦略、これがヒットするのか、実に興味深い。

それにしてもモールに来るインドネシア人は何となく楽しそうだ。子供達も浮かれている。それは私が子供の頃にデパートへ行く、という感覚に似ているような気がした。何を買う訳でもない、アイスクリームを1つ食べたら十分満足だった。モールの中庭でクジャクが子供の人気を集めていた。遠い昔を思い出していた。

3世代の夕食会

夜、Eが迎えに来てくれた。住宅街の一角にあるレストラン、そこは漢字の看板はないが、バンドン在住華人が集う人気スポットだった。夕方6時前でも既に予約で一杯、辛うじて入り口付近に席が確保できた。すると次々にTの親戚が集まって来た。その数10名以上。

Eは料理の注文を済ませるとどこかへ消えてしまい、あとは皆適宜話を始める。私の横にはTの伯父さんの娘とその旦那、そして幼い女の子が座った。40代の旦那は英語で話し掛けて来る。インドネシアの経済情勢などを聞く。その向こうでは60代の二人のおばさんが何と広東語で話している。あれ、この一族は客家系ではなかったのか。聞けば、広東系の女性がTのおじさんの所にお嫁に来たのだそうだ。この二人のおばさんは私に対しては普通話をまさに普通に話してくる。数人いた幼い子供達は普通話は勿論、英語も出来ず、完全にインドネシア語のみで生活している。面白いのはTと親せきの会話。従弟たちとは全て英語、おじさん、おばさんとは普通話。この2世代が混ざって話すときは従弟たちが懸命に普通話を使おうとする。そこには既にルーツである客家語は出て来ない。

Eの妹は彼氏を連れてやって来ていた。親戚一同に顔見世だろうか。皆興味津々で話し掛けるが、それは全てインドネシア語。インドネシア語と言ってもバンドンの方言らしいが。この会の共通語はインドネシア語である。若い世代は中華系の学校に行けば、普通話も習うというが、今や基本はインドネシア語、そして英語だろうか。華人が生きていく上で必要な言語を習得するのであって、アイデンティティだけでは生きていけない。歴史がそうさせている面もある。

Eが自分の父親を連れて戻ってきた。たった今台湾から戻ったのだそうだ。華人の代表団に参加し、台湾の高官とも面談したという。元学校で普通話を教えていたというこの老人、一体どんな人なのだろうか。確かに普通話の発音は格別上手かった。娘がお父さんに彼氏を紹介している。これは意外と重要な場面に遭遇したのかもしれない。

料理は中華ではなく、インドネシア料理。華人も既に百年単位で暮らしていると、母国の味より、現地の味となるのだろうか。何だか焼き鳥が実に美味かった。日本の味にも近いようで、こちらの方が故郷を懐かしんだ感がある。




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