ふらっと四国茶旅歴史旅2022(5)松山城から道後温泉

道を歩くと汗が噴き出す。そんな状況下、なぜか松山城へ向かう。ロープウエーがあるというのでそこまで行ったが、『歩いても登れます』と言われると、やはり歩く。東雲神社から登り始めると、脇をリフトに乗った人たちが通り過ぎていく。ああよかった、リフトは苦手だ。

思ったほどきつく無い坂を上がっていくと、石垣が見えてきて助かった。そこからは天守閣へまっしぐら。意外と楽に上まで上がった。だがそこからも敷地が広い。これも込みで25分かかるといったのだろう。天守閣入場料520円。三層の天守、下の階に展示が多くあったが、どう歩いてよいか分からず。

この城を作ったのは、賤ケ岳の七本槍の一人、加藤善明。彼も藤堂高虎、加藤清正と並んで築城の名手。その後は久松家(松平)が続くが、幕末佐幕派と見做され、土佐藩に占領されてしまう。松山という土地は豊かだから、争いを好まない雰囲気があり、動乱期には弱いのかもしれない。

城の横から下へ降りる。足の悪そうな老人がゆっくりと降りていく。どうして足が悪いのに、と思っていたが、その地道な動きは意外と素早い。一方私は疲れて途中で休み、何と老人に抜かれ、更には見えなくなるまで突き放された。ちょっと絶望的な気分になる。10年後、旅はもう難しいかもしれない。

二の丸公園まで山道を降りてきた。普通の公園かと思っていたが、入場料がいる。疲れたので休息もかねて県立図書館へ向かう。ここで石鎚黒茶や愛媛の茶の歴史を調べる。とても親切に資料を出してくれ、アドバイスもくれた。何とも有難い。ドリンクを買う。今日はそれほど暑いわけではないが、水分補給は重要だ。

宿に戻って完全休養に入る。午後3時に一番風呂を浴びる。そして4時過ぎに少し涼しくなったところでまた外へ出たが、また汗が出たので、アーケードを歩く。高浜虚子生誕地の看板を探す。正岡子規だけでなく、松山は多くの俳人を生み出している。河東碧梧桐生誕地もあった。

まだ4時台だが腹が減り、目に入った蕎麦屋へ入る。今日のお勧めは『キス天ぷら』と書かれていたので頼んだら、『ちょうどこの時間からお勧め変わります』と言われ、エビの天ぷらになってしまい、更に値段もアップしてしまった。店員さんの愛想があまりにも良いので、そのまま黙って食べた。

駅前では相変わらず選挙演説が続いていた。女性候補は息子を応援に担ぎ出し、女子高生の知り合いがたくさん来る、皆で写真を撮りあうという、不思議な光景が見られた。実はこの候補があの往年のアイドル、高見知佳であることには最後まで気づかず、選挙後落選の報道で初めて知ることとなった。駅前には気になっていた『ひぎりやき』というまんじゅうを売っていたので、買ってみた。100円でかなりボリュームがある。

7月8日(金)道後温泉

今朝も大谷を見ていたが、やはり投打の二刀流でないと時間を持て余す。残念だが途中で打ち切り、道後温泉へ向かった。松山へ来たら、やはり道後温泉には行くだろう。ただ暑いので温泉には入らない予定で。駅前から路面電車の道後温泉行に乗る。Suica使えないので現金を予め用意している。前回乗り違ったので今回は慎重に乗り込む。

今日は問題なく、まっすぐに道後に向かった。乗客は多くない。終点まで乗ったのは2人だけだった。ちょうど10時でからくり人形が動き出し、修学旅行生が一斉に写真を撮っている。私はその横の正岡子規と野球の像の写真を撮った。その後道後温泉本館を目指したが、何と大改修中。中には入れるのだろうが、予定通り外から写真だけ撮って去る。

少し歩くと宝厳(ほうがん)寺という寺があった。一遍上人生誕地と書かれている。一遍は踊念仏や全国行脚で有名だが、ここが地元。河野氏の一族の出だという。河野通信は鎌倉初期の承久の変で朝廷側として戦い、東北に流され死亡した。後に一遍は行脚の途中に墓参りをしたとある。一遍上人堂はミニ美術館になっている。

伊佐爾波神社に裏からは入り込む。正面へ回ると急な石段。何とか歩いて降りた。そこから鶯谷墓地を目指す。ここにはあの秋山好古が眠っている。いかにも彼らしい小さい墓だった。周囲の古い墓は誰のものだろうか。他にも白川義則(大将)、伊佐庭如矢(温泉発展)、中村草田男(詩人)らの墓があった。

子規記念博物館がある。なんだかとても立派な建物で怖気づき、何となく見学せずに立ち去る。その横は公園、湯築城跡で資料館もある。係の人が熱心で『案内ビデオ(10分)』を見るように勧めてくれた。河野氏の流れがよく理解できた。先ほどの一遍上人の先祖は、承久の乱で朝廷方についたが、ただ一人北条政子の妹を嫁にもらった男が幕府側に付き、河野氏は滅亡を免れたらしい。

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