山口歴史旅2022(6)いざ巌流島へ

所々に金子みすゞが見えてくる。公園には金子みすゞ碑が作られ、勤めていた書店跡までプレートが嵌っていた。みすゞの小径などという文字も見える。下関は金子みすゞを観光で売り出している。長門から下関に移り住み、ここで詩の才能を開花させたからだろうか。何と言っても2011年の東日本大震災の時のテレビコマーシャルが非常に印象に残っており、そのお陰でこのようなことになっていると思われる。その先に国分寺と書かれた寺があったが、あの奈良時代の国分寺とは無縁のようだった。

旧英国領事館の建物に入ってみる。1906年に建てられたもので、如何にも英国という感じがした。そしてついに巌流島へ向かう時間が来た。昨日門司港へ行ってしまったので、単純に巌流島往復で900円。小型フェリーで僅か10分、小雨のため乗客は僅か4人。それでも何だか気持ちは高揚する。

意外と大きな島だった。大正時代に埋め立てが行われたらしい。昭和48年に無人島になったというが、現在は観光地として草がきれいに生えている。少し歩くと関門橋をバックに武蔵と小次郎の像が置かれ、撮影スポットになっている。武蔵が渡ったのと同じような小舟が展示されている。残念ながらこの島は一周することができない。対岸に見える三菱重工の工場、そう三菱がここの一部を所有しているらしい。

それにしてもなぜ巌流島というのだろうか。古来負けた方の名前を付ける戦場などあるのだろうか。一体なぜこの島で、何のために決闘が行われたのか。1612年に行われたのは本当なのだろうか。全てが謎に満ちており、吉川英治だけが独り歩きしているように思える。しかし島に渡ってみても何一つ答えてはくれない。1時間後のフェリーで引き揚げるしかなかった。

唐戸商店街を歩く。その先には田中絹代文化館(新しい)や旧宮崎商店があった。そこからフェリー乗り場方面へ戻ると、何やら不思議な建物が見えてきた。洋館風なのに、屋上に純日本家屋の屋根が見える。ここは何だろうと急ぎ訪ねてみると、秋田商会ビルだった。大正期に建てられた洋館で、屋上に素晴らしい庭園と日本家屋が現存している、世界的にも珍しい建物であった。

入っていくと係員の人が一生懸命説明してくれ、好感が持てる。1階の展示で秋田商会のあらましを掴む。秋田寅之助という人が日清戦争後海運業などで財を成し、台湾や朝鮮、満州などに拠点を持って、木材などを中心に貿易を行っていたらしい。このような地方の会社、台湾にも色々と進出していたであろうと想像され、興味が沸く。

2,3階には畳部屋の大広間がある。部屋数もすごく多い。洋館に畳の大広間、このギャップが何となく大正を感じさせる。ここで大宴会が開かれたであろうことは想像に難くない。洋間もごく一部あるようだが、開放されていなかったので、余計に畳の印象が強くなる。屋上は現在開放されておらず、日本庭園を見ることは残念ながらできなかった。

雨は強く降らなかったので、そのまま散歩を続けた。駅の近くに大歳神社があった。ここは源義経が先勝祈願した場所、そして高杉晋作が奇兵隊を結成、旗揚げの軍旗を奉納した場所と説明されているが、階段があまりに急激で、登るのは遠慮した。下関はやはり源平と幕末が交錯する町なのだ。ついでに奇兵隊結成の地、白石正一郎邸跡にも行ってみる。やはり記念碑が建っているだけだったが、白石については司馬遼太郎情報以外にも、もっと知りたい。

さすがに疲れたので一度宿に戻り休む。夜はいかにも町の定食屋という店に入り、鯨汁定食を食べた。焼サバと大量の鯨汁で900円。汁がとてもいい味を出していて、すっかり飲み干し大満足。近所の常連さんが一人のみ、数人のみをしており、コロナのことなど忘れてしまうようなレトロな雰囲気が漂う。

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