山口歴史旅2022(4)下関歴史散歩

そこには洋館が建っていた。旧リンガー邸と書かれていてようやくここへ引っ張られた訳が分かった。リンガーとは幕末から明治に掛けて、長崎で茶貿易をしていたリンガー家であり、確かに下関にも支店(瓜生商会)があった。ここまで来たのだから中を見学しようと思ったが、開館には少し早かったので、庭から少し林に入ってみた。

そこには意外にも墓が2つあった。一つは白石正一郎、もう一つは真木和泉の息子の墓だった。白石は廻船問屋にして明治維新の影の立役者。長州藩を財政的支えた人物で、自らの家財をつぎ込み、維新後は赤間神社の宮司になったと聞いている。真木和泉は勤王の志士、その息子菊四郎も父に従ったが、この地で暗殺され、葬られたという。しかしこんなところになぜ、とは思うが、それはこの林の道が赤間神社に続いているからだろうか。

10時になると藤原義江記念館を管理する赤間神社宮司夫人がやってきた。何とこの地は40年ほど前に神社所有になっていたのだ。ここの所有者だった藤原義江は世界的なオペラ歌手。そして父はリンガー商会下関の総支配人リード。母は日本人芸者で、大阪で生まれ、リードに認知されなかった(藤原という人が戸籍に入れたため日本国籍を取得)ため、義江がここに住んだことはないらしい。

ここは元々リードと従業員の木造住宅であった。後にリードは門司港に別邸も持ったが、今はその邸宅はないという。目の前の建物は1936年、フレデリック・リンガーの息子が建てた。展示を見ながら、色々と話を聞いたが、目に留まったのは晩年義江が出演したテレビドラマ『オランダお稲』(主演:丘みつ子)のシーボルト役。一昨年長崎でお稲、お滝、シーボルトの足跡を訪ね歩いたのが思い出される。

そこから赤間神宮へ向かう。途中に講和条約地である春帆楼が見える。今は立派な建物で、そこに記念碑、更には伊藤博文、陸奥宗光の胸像があった。赤間神宮は壇ノ浦で沈んだ安徳天皇が祭神だが、その阿弥陀寺陵は閉ざされていた。独特な形の水天門を潜ると、記念撮影をするタイ人団体に遭遇。脇には平家一門の墓があり、知盛や時子の名が見られた。

先に進むと壊れた船がある。これが源平合戦時代に使われたサイズの船だという。こんな小さな船だったのか。その先にはなぜか大連神社がある。この神社は日露戦争後大連に建てられ、第2次大戦後、ご神体をソ連軍に保護されて帰国したとある。この歴史はもう少し調べてみたい領域ではある。しかし気になることを全て調べていては、茶の歴史調査は前に進まないことは経験上良く分かっている。

更に歩くと関門海峡大橋が見えてくる。バス停や漁協に壇ノ浦の文字が見える。橋の下を越えると、『壇ノ浦古戦場址』の記念碑が見られ、安徳天皇御入水之処などの石碑、そして平知盛と義経の像などがあるが、全て新しく、800年の時の流れとは無関係に見える。ただこの地に立つと、確かに狭い海峡、潮の流れが速そうだとは思う。『馬関開港百年記念』の碑の方が古びている。

ここで止まればよかったのだが、昨日の観光案内所の人が『前田台場跡』と繰り返していたので、そこまで歩いてみた。これが意外と遠い。途中に『平家の一杯水』と書かれた看板を見る。合戦に敗れた平家方武将が、最後の水を求めたと伝わる場所。これは門司側にもあったので、いくつも伝承があるに違いない。

前田台場跡は少し小高い場所にあった。160年前はこの前は海だったに違いないが、今は道路が通り、その向こうに建物もある。前田台場は幕末の攘夷戦で長州藩が建造した砲台だった。無謀にも四国連合軍に戦いを挑み、砲台は占拠されてしまう。ここから長州は開国に舵を切り、明治維新に繋がると思えば、極めて歴史的な史跡ではあるが、今やその名を知る人もほぼいない。勿論見学しているのも私一人であり、案内所の歴史好きの人が私を見込んで紹介してくれたことに複雑な思いであった。

関門海峡大橋まで戻ると、そこに関門トンネル人道入口を発見した。エレベーターで地下に降りると、そこには地下道があり、歩いて門司側に渡れる。しかも無料だというので、何となく歩いてしまった。歩いている人は結構いる。観光名所なのだろうか。途中に山口福岡県境の表示もあり、思わず写真を撮る。約3㎞ぐらいだったろうか。楽しかったのですぐ着いてしまった。本州から九州への横断はいとも簡単に達成された。

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