山口歴史旅2022(3)山口から下関へ

県立図書館で資料を調べ、最後に亀山公園に登る。暑い中、結構坂がきつい小山で堪える。明治期に銅像公園として毛利家の歴代当主の像が建っていたらしいが、今は敬親の像だけが真ん中にぽつんと建っている。この付近は大内を継いだ大友宗麟の弟が毛利元就と戦った場所でもあるらしい。

そしてその下には昨日も見たザビエル教会がある。丘から降りていくと大内義長の裁許状の碑があった。義長は大友宗麟の弟で、大内義隆の死後、大内家を継いだ人物。九州でザビエルにも会っており、ザビエルの後継者であるトルレス神父に布教を認めたのだろう。この辺の流れから、天正少年遣欧使節団派遣までは興味ある所だ。横には国木田独歩の詩碑もある。独歩は山口中学に通っていたらしい。

それから教会内に入ってみた。入場料が必要だったが、係員はいない(帰りに入場料を払うと、ちょっと意外な顔をされた?)。時間がないので仕方なく先に見学を始める。2階にはザビエル像、そして礼拝堂がある。1階はザビエルの生涯、日本での布教の様子などがかなり細かく展示されており、参考になる。15年以上前、ザビエルが死んだ島、広東省の上川島(展示ではサンチャン島)へ行った時のことが思い出される。確かあそこに山口ザビエル教会の記念碑があったように記憶している。

さすがに歩いて宿へ帰る気分ではなかったので、何とかバスを探して戻る。日本のバスは遅れても数分なので、バス停などを間違えなければ暑くても安心して待てるのが良い。JRバスだったのでSuicaで乗れるのも有難い。昨日歩いた道をどんどん追い抜いていく。こうなると少し元気が出て来たので、宿を乗り越して次のバス停で降りる。

最後に向かったのは周布政之助の墓。公園内に大きな石碑が建っていた。周布は幕末長州藩の重臣で、高杉、井上らを庇護、藩政に尽くしたが、最後は謹慎、自刃。公園横の墓地にある周布の墓石には、麻田公輔という名前が刻まれている。これは謹慎後も周布が別名で藩政に従事したからだと書かれている。そして42歳でその生涯を終えた。彼のような幾多の人物の上に明治はやってきたのだ。因みにこの辺りには周布が謹慎した吉富家があったという。

時間調整のため、中原中也記念館をさっと見る。それほど期待はしていなかったが、やはり彼の詩には趣があり、引き込まれる何かがある。また幼少期、広島や金沢に住んでいた頃の展示もあり、興味を惹かれた。それから荷物を引き取り、駅へ向かう。新山口駅行に乗り、昨日と逆向きに走る。この時間帯は高校生の下校時。3分ほど遅れて新山口に着いたが、何と下関行列車はちゃんと待っていてくれたので、慌てて乗り込む。それから1時間ちょっとで下関まで来た。

駅の観光案内所に寄る。歴史的な場所を知りたいというと年配の男性が登場して、これでもかというほど資料をくれて、説明もしてくれた。こんなに本格的な歴史スポットの紹介及び資料提供を受けたのは初めてかもしれない。そして下関への期待が非常に高まる。取り敢えず予約した宿まで歩いて行き、荷物を置く。

今日は陸上日本選手権をテレビで見るため、準備に走る。近所のセブンイレブンでドリンクと夕飯を調達する(近くのラーメン屋などは軒並み閉まっている)。後はテレビを見て、大浴場に浸かり、ゆっくりと疲れを癒す。

6月10日(金)下関散歩

朝飯を食べ過ぎてしまい、腹が苦しい。すぐに歩いて唐戸桟橋へ向かった。取り敢えず巌流島行フェリー情報を聞きに行く。平日は巌流島‐門司港‐唐戸ルートの船は無いと知り、予定を変更して下関を歩き始めた。ここは1895年の下関講和条約の締結地。この条約により、台湾が日本領になったのだから、台湾茶業史上も重要な街と言える。全権大使李鴻章の宿泊先である引接寺の階段が何となく印象的。寺自体は新しい。

更に行くと李鴻章道という道があった。李鴻章は下関滞在中に暴漢に襲われているが、それはこのあたりだろうか。李鴻章道と並んで藤原義江記念館という表示も出ていた。特に興味もなかったが、なぜかそちらに引っ張られるように進んでしまう。そこは非常にきつい階段があったにもかかわらず、最後まで登り切る。

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